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東北地方の各地には鬼伝説が多くあるが、その多くは、モチーフとして蝦夷勢力と大和勢力の対立と考えられる。この弘前市鬼沢の鬼神社に残る鬼伝説も、そのような一つと考えられ、その初めは、坂上田村麻呂東征のおりに、岩木山山頂奥宮に鎮まる高照姫神の霊験によりこの地に再建されたと伝えられる。

しかし、この鬼神社の伝説は、当初の伝説の上に、その後の様々な要素が付加されていったようで、通称「おにがみさま」と親しみを込めて呼ばれており、鳥居の扁額では、鬼という字には、上部のノがない。これは、ツノのない優しい鬼だと言うことを表しており、この地では鬼は、必ずしも忌むべき存在ではないようだ。

拝殿には、額に入れられた鉄製農具が多く奉納されており、中には1千年前の鉄製の鍬形もあると云う。また付近では製鉄を行っていた形跡が多くみられ、この地の鬼の伝承には、鉄生産に関わっていた非農耕民の姿が投影されているのではないかとも考えられている。また鬼沢は切支丹の流刑地であったと考えられることから、それがモチーフとも思われる。

・鬼神社の鬼伝説

昔、鬼沢がまだ「ながねはだち」と言われていた頃、ある日、村の若者の弥十郎が、岩木山のあそべの森に柴刈りに行った。弥十郎が柴をかっていると、森の奥から天にもとどく大人(おおびと)が現れた。大人は、「すもうとって勝負しねえが」と言う。弥十郎は少し驚いたが、一緒に楽しくすもうをとった。

その夜、弥十郎が寝ていると、外でドスンと大きな音がした。起きてみると、山のような柴が積まれていた。そのようなこともあって、弥十郎と大人は仲良くなり、毎日すもうをとっていた。

ある日のこと、弥十郎が沈んだ顔でいるのに気付いた大人が、弥十郎にわけを尋ねると、弥十郎は「田んぼに水がこなくて」と言った。弥十郎は新しい田んぼを開いたものの、水がすぐ枯れてしまうのだった。大人は「俺にまかせろ、しかし俺が仕事をしているところを見てはだめだぞ」と言った。弥十郎は決して見ないことを約束して帰った。

ところが、弥十郎のおかみさんが、いつも弥十郎が出かけるので、これはおかしいと思って山へ行ってみた。するとなんと、鬼が大きな岩を動かして水の道を造っている。驚いたおかみさんは「山に鬼いたぞ!」と村人たちに話してしまい、驚いた村人たちはみんな家の中に隠れてしまった。

次の日、村人たちが外に出てみると、田んぼにたくさんの水が流れている。「これで、米がとれるぞ」と、みんな大喜びだった。大人は谷底から水をひき、低いほうから高いほうへ流れる堰「逆さ堰」をつくったのだった。弥十郎は礼を言おうと大人に会いに行ったが、鍬とミノ笠を置いたまま大人は消えていなくなっていた。

大人のつくった堰のおかげで、「一ヵ月雨が降らなくても水不足にならない、一か月雨が降り続いても洪水にならない」土地になった。村人たちは大人を鬼神様として祀り、堰をつくったときの道具をかざった。そして、「ながねはだち」は、鬼がつくった堰のあるところとして「鬼沢」と呼ぶようになった。

鬼沢には、「鬼の腰掛け柏」や「鬼の土俵」など、鬼伝説ゆかりの場所がある。鬼沢の住人は、今でも節分の日には豆をまかず、端午の節句に、鬼除けのヨモギや菖蒲を屋根にのせないことを習慣にしている家が多い。鬼沢では、鬼は今も生活の身近にいる。

この地の鬼伝説のモチーフは、田村麻呂に追われ、岩木山麓に隠れ住んだ蝦夷であるとか、製鉄技術、潅漑技術を持った修験者だったとかの説がある。しかし、この地は江戸時代初期に、キリシタンが配流され開墾にあたった地であることも関係しているかもしれない。

・鬼沢の切支丹

江戸時代初期の慶長19年(1614)、キリシタン大名の高山右近、内藤如安など148名がマニラ、マカオの国外に追放され、大阪、京都、播磨の71名のキリシタン信徒が津軽に流された。戦国期末期に、西洋文化に興味を持った大名たちの間にも広まっており、津軽為信の長男、信建、および弟の二代藩主となった信枚も洗礼を受けていた。しかし江戸時代に入り、幕府はキリスト教禁教を明確に打ち出し、この幕府の措置は津軽藩に対する踏み絵であったのかもしれない。

その中の多くは、関ヶ原で敗れた姫路の宇喜田秀家の一族や、加賀前田藩の重臣などの士族や、医者や僧侶などの当時の知識階級だった。一行は京都を出発し、敦賀から日本海沿いに船で進み、鯵ヶ沢に上陸し、そこから弘前領のこの鬼沢の地に入ったと考えられている。

元和元年(1615)と翌年、津軽地方は大凶作にみまわれた。当然、鬼沢の地の窮状は推して知るべしで、このような中、ジェロニモやガルバリヨなどのイエズス会宣教師が、流刑キリシタンの集落を訪れて慰問活動を行った。そのようなこともあり、津軽の地とその先の蝦夷地には、全国からキリシタンが逃れてきたようで、鬼沢はその中心地となったようだ。

鬼沢の地の鬼伝説は、「逆さ堰」の伝説から、キリシタンによるものとも考えられ、もしかすると、キリシタンによる鬼沢の開墾がそのモチーフであるかもしれない。

しかし弘前藩では、元和3年(1617)には6人のキリシタンが処刑され、島原の乱の翌年に当たる寛永15年(1638)には、津軽でキリシタン73人が火あぶりに処せられた。それ以降は切支丹改帳が作られ、津軽でのキリシタン活動は完全に抑え込まれたようで、江戸中期以降のキリシタンの記録はほとんどない。

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