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現在の秋田県由利郡は、戦国期には、由利十二頭と呼ばれる小勢力が割拠していた地だ。由利十二頭の一人の太井義久は、応仁元年(1467)、信州太井の庄から下向し矢島の地を領し、八森城を築き居城とした。

由利郡は、安東氏、小野寺氏、戸沢氏、大宝寺氏、最上氏などの大勢力に囲まれ、十二頭それぞれがこれら諸勢力と結びあるいは離れ、戦国期にいたり、この地に大勢力が興ることはなかった。

大井氏四代満安は矢島五郎を称し、小野寺氏と結び、大宝寺氏と結んでいた仁賀保氏と数度にわたり激しく戦った。しかし文禄元年(1592)、由利諸頭の総攻めにあい破れ矢島氏は滅亡した。その後は、仁賀保氏が支配するところとなったが、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い後は、由利郡は最上義光の支配下に入った。

しかしその最上氏も、元和8年(1622)改易になり、徳川旗本となっていた由利十二頭の打越氏が入ったが、寛文12年(1635)に継嗣なく断絶となった。その後の寛文17年(1640)、17万3千石の讃岐高松藩で、家臣同士が争う生駒騒動が起き、生駒藩は改易となり、生駒高俊は、矢島1万石を堪忍料として与えられ矢島に入った。

生駒氏は、大和の生駒の出身で、本姓藤原氏とされる。藤原房前の後裔良房のときに大和の生駒邑に居していたが、家広の代に、応仁の乱の戦禍から逃れ尾張へ移り住み、生駒姓を名乗るようになったと云う。家広の跡を親重が継ぎ、その娘が織田信秀に嫁ぎ、織田信長の生母となった。

生駒家と織田家は同盟を確立しており、織田信秀が没し、織田信長が家督を継ぐと、信長は着実に尾張統一を推し進めていった。そして、 生駒家宗の娘が信長の後妻正室として嫁ぎ、両家の関係はさらに強力になったが、永禄9年(1566)ごろから、信長は生駒家へも従属をせまるようになり、美濃攻めの頃には、織田氏に従属する形となった。

親正は、羽柴秀吉とともに、元亀元年(1570)の越前金ケ崎で殿軍を戦った。信長没後は秀吉に従い各地に戦い、堀尾吉晴・中村一氏とともに「三中老」のひとりに数えられ、文禄4年(1595)には、讃岐丸亀で17万1,800石を領するようになった。

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、親正の子の一正は会津出兵に参加し、そのまま東軍に与し関ヶ原本戦で武功を挙げた。しかし、親正は在国し西軍に与し、このため親正は戦後高野山に入り出家した。生駒氏は結局は罪は問われず、1万5千石の加増となり高松に移った。

一正は先見の明を持ち、慶長13年(1608)、幕府の政策を先取りする形で、妻子を江戸屋敷に居住させたため、その忠義を徳川秀忠より賞された。その跡は正俊が継ぎ、伊勢津藩主藤堂高虎の娘を正室とした。大坂の陣では遊軍として活躍したが、元和7年(1621)36歳で死去した。

その家督は11歳の高俊が継いだが、幼少のため外祖父の藤堂高虎の後見を受けることになり、高虎は、藤堂家の家臣を讃岐へ派遣して藩政にあたらせた。

寛永2年(1625)高俊は元服し、寛永10年(1633)には、幕府老中首席の土井利勝の娘を正室として迎えた。藤堂高虎は、生駒家一門の家老生駒将監・帯刀父子の力を抑えるため、生駒家では外様の家臣である、前野助左衛門と石崎若狭を家老に加えさせた。前野と石崎は、藤堂家の意向を背景に権勢を振るい、寛永10年(1633)に生駒将監が死ぬと藩政を牛耳るようになった。

しかし藩主の高俊は、暗愚で怠惰な人物だったとされ、藩政を両人に任せきりにして、自身は専ら男色を極度に愛好し、美少年を集めては舞わせる遊びに打ち興じていた。世人はこれを「生駒おどり」と呼んだという。また参勤交代の行列にも美少年を若衆姿に飾り立て多数加え世情を賑わせた。これを憂いた正室が、父の土井利勝に高俊の行状を訴え、利勝は立腹して厳しく諌めさせたが高俊の乱行は一向に収まらなかった。

このような中、増長した前野と石崎はしばしば専横な行いをするようになり、これに不満を持つ一門譜代の家臣たちと対立して家中は乱れた。寛永14年(1637)、一門の生駒帯刀は江戸へ出て藤堂家の藩邸へ藩の実情を訴え、藤堂高次は容易ならぬことと思い、前野と石崎を厳しく訓戒したが家中の不和は収まらず、かえって激しく対立するようになってしまった。藤堂高次は、土井利勝らと相談、このままでは生駒家はお取り潰しになると考え、事を収めるために双方の主だった者5人に切腹を申し付けることになった。

しかし国許の生駒帯刀などの一門や譜代の家臣たちはこれに従わず、藤堂家は生駒氏の騒動から手を引き、前野と石崎の家臣や家族らは、鉄砲や刀槍で武装して国許を立退き、江戸でも一味の者たちが藩邸を立退き、大騒ぎになった。

結局この騒動は幕府によって裁定されることになり、帯刀派の者の多くは他藩にお預け、前野・石崎派の者の多くは切腹・死罪となった。また藩主高俊に対しても、家中不取締りであるとして城地を没収し、出羽へ流罪とし、堪忍料として矢島1万石を与えた。

以後高俊は矢島で謹慎となり、万治元年(1658)ようやく許され、翌年の万治2年(1659)、高俊は没した。子の高清が家督を相続、実弟に2000石を分知し知行は8000石となり旗本になり、以後幕末まで続いた。

慶応4年(1868)の戊辰戦争では、生駒親敬は、秋田久保田藩や出羽本荘藩と共に新政府側に与し、奥羽鎮撫総督府から出羽庄内藩攻撃の先導役を命じられて出兵した。しかし庄内藩の新徴組による鳥海山越えの奇襲を受け、矢島は戦場となり、奮戦むなしく陣屋を自ら焼き払い、秋田久保田城下に逃げた。戦乱が決着した同年11月、実高による高直しによって1万5,200石の大名となり諸侯に列せられ、明治17年(1884)、親承は男爵を授けられた。

高俊ら生駒氏歴代の墓所は矢島の龍源寺にある。

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