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山形県米沢板谷峠には、忠臣蔵で不忠の臣とされる大野九郎兵衛の供養塔が、また宮城県仙台市泉区には、四十七士のたった一人の生き残りの、寺坂吉右衛門の墓がある。ここでの話は、その伝承と史実をもとにした創作である。

元禄15年12月14日、大石内蔵助ら47人の旧浅野家藩士は吉良邸に討ち入り、翌未明に吉良上野介を見つけ出しその首を落とし本懐を遂げた。皆それぞれに高ぶった気持ちを落ち着かせながら、篝火で暖を取りながら傷の手当などを行っていた。寺坂吉右衛門は傷を受けることもなかったため、同志の傷の手当などに動き回っていたが、大石内蔵助に呼ばれ、内蔵助が休んでいる屋敷の一角に赴いた。

内蔵助は、吉右衛門に、この討ち入りの仔細を、内匠頭の室の瑤泉院や芸州浅野本家へ報告に向かうよう命じた。そして驚くことに、裏切り者である、かつての家老の大野九郎兵衛へ、本懐を遂げたことを知らせるように命じたのだ。

九郎兵衛は赤穂藩財政の運営と塩田開発に手腕を発揮し、内匠頭により異例の抜擢を受けて家老に取り立てられた人物だった。内匠頭は切腹、赤穂浅野家が断絶になると、開城恭順を主張、籠城を主張する筆頭家老の大石内蔵助派の藩士と対立し、城内が騒然としている中、自分の分配金を受け取ると、女駕籠で逐電していた。同志の間では一様に「不忠者」として、唾棄すべき存在だった。

しかし内蔵助の話では、同志として行動することを願うのを、内蔵助が無理を言い、討ち入りが不首尾に終わったときの、第二陣を頼み込み、僅かな郎党とともに、今も潜んでいると言うのだ。それも、悟られることのないように不忠者として、泣く泣く同志のもとを離れ、孤独な戦を今も続けているのだという。

内蔵助は、本懐を遂げたことを一刻も早く知らせ、「不忠者」のそしりを受けながらの、九郎兵衛の孤独な戦を終わらせてやりたいと語り、内匠頭が切腹で使い、怨敵上野介の首を落とした、内匠頭の「お肉切」の脇差を九郎兵衛へと、吉右衛門に託した。吉右衛門は、最後まで四十七士の一員として同志と行動を共にしたかったが、「不忠者」のそしりを受けながらの戦を続けている九郎兵衛を思えば、断ることは出来なかった。

吉右衛門は、泉岳寺への凱旋の途中、一人同志と別れ瑤泉院のもとに向かい、討ち入りの仔細を報告し、僧に姿を変え墨染めの衣を纏い、芸州浅野本家へ向かい報告を済ませた。吉右衛門の気持ちはせいていた。本懐を遂げた今も、九郎兵衛はそれを知らず、孤独な戦を続けているのだ。一刻も早く荷を下ろしてやりたかった。

内蔵助の話では、九郎兵衛は、内蔵助らの討ち入りが不首尾となった場合は、上野介は必ずや養子に出し米沢藩主となっている我が子の上杉綱憲のもとに逃げ込むだろうと考え、江戸と米沢を結ぶ参勤交代路の米沢街道板谷宿に潜んでいるということだった。芸州からすぐに板谷宿に向かった。

板谷宿は、米沢領に入る最後の難所である板谷峠手前の山深い宿場町だった。旅篭は本陣をも含め6軒ほどしかない小さな宿場町だった。旅籠で尋ねると、上方で何か悪さをしてきたらしいと噂のある者が、町のはずれの廃屋に住み着き、峠の手前に炭焼き小屋を建てて炭を焼いている者がいるという話を聞き込んだ。

吉右衛門は、翌日早くその住まいとしているらしい廃屋に出向くと、間違いなく九郎兵衛だった。これまで誰も訪ねる者などなかっただろう、九郎兵衛は油断なくこちらを伺い、小者三人は、それとなく背後に回り込んだ。吉右衛門は、ゆっくりと笠をとり九郎兵衛の前にひざまづいた。九郎兵衛は名を呼ばれたことに驚いた様子でしげしげと吉右衛門を見つめ「吉右衛門か」と声を発した。

九郎兵衛は注意深くあたりを伺い、吉右衛門を中に招じ入れた。決して不忠者などではない、戦の中にある強者の姿だった。吉右衛門は、事の顛末を仔細に話した。九郎兵衛は同志一人一人の戦いぶりを次々と尋ね、それを聞くことで、吉良邸で自分も共に戦っているかのようだった。もちろんそう思う資格が九郎兵衛には十分にあった。

一通りの話が終えて、吉右衛門は内蔵助から預かった、内匠頭「お肉通し」の脇差を差し出し、内蔵助からの口上を伝えた。「仇討の一番の手柄はわしがもらった。一番の忠義は九郎兵衛のものじゃ」と仰せでした。九郎兵衛は声を上げて泣いた。

翌朝、九郎兵衛は小者たちに暇を出し、吉右衛門とともに峠に向かった。九郎兵衛は無言だったが顔は晴れやかだった。峠にほど近いところ、街道からわずかに外れた個所に、慎重に隠されたような形で炭焼き小屋があった。小屋の中には2丁の種子島と刀、槍が隠されていた。九郎兵衛は刀を取り出し吉右衛門に渡し、唐突に「介錯を頼む」と言った。内蔵助はこのようなことを予見していたのだろう、「九郎兵衛には生きながらえるよう伝えてくれ」と吉右衛門に言っており、それは昨夜しっかりと伝えていた。

九郎兵衛の決意は固いようだった。その言によれば、九郎兵衛は二度ほど迷いが生じ、その使命を投げ出そうと考えたことがあるということだった。「そのようなわしを、太夫は忠義第一の者としてこの「お肉通し」の脇差を下さった。ここで腹を切ることで、わし自身も忠義第一のものとして生涯を終えることができる」
そして内蔵助からの「お肉通し」の脇差を吉右衛門に渡し、妻子のもとにこれを届けて欲しいと託した。
「赤穂を去ってからは、妻も子も、不忠者の妻よ子よと罵られながら隠れ住んでいる。この脇差を手にすれば、妻や子も、いかなるそしりにも耐えられるだろう。わしも妻や子の中で生きることができるだろう」
吉右衛門にとめる手立てはなかった。

吉右衛門は、九郎兵衛の遺骸を丁重に埋葬し、塚を築き、遺髪と「お肉通し」の脇差を九郎兵衛の妻子の許に届けるべく板谷を去った。その1月ほど後、父の上野介を討たれ面目を失った上杉綱憲が板谷峠を越えて米沢に向かっていった。

その後、全ての使命を終えた吉右衛門は、幕府に名乗り出たが思いもかけず許され、仏門に入り理海坊と名乗った。吉右衛門は同志四十六人に大野九郎兵衛の名を加えた四十七士の名前を記した巻物を笈に忍ばせ、亡君や同志の菩提を弔うべく諸国をめぐり、晩年、仙台領内の七北田の地に錫をとめ、粗末な庵を結び、手習い師匠として余生を送ったと伝えられている。

討ち入り後40年の、寛保2年(1742)に没した。誰にも寺坂吉右衛門であることを話していなかったが、村人たちが遺品を整理して、はじめて寺坂吉右衛門であったことがわかったという。