かつて、陸前高田を訪れたとき、今はない高田の松原を歩いた。すでに夕暮れが近く天気もよくなかったために、写真に収めることはできなかった。そのときは、その内来るときもあるだろうと考えた。それがあの大震災に襲われ跡形もない。
高田松原は、350年にわたって植林されてきた約7万本の松の木が茂り、三陸復興国立公園や日本百景にも指定されていた景勝地だった。あのときは、高田の松原は未来永劫残るものだと言う思いがどこかにあった。形あるものはいつかは滅びる、という思いを立ち枯れた老木の前でこれまでも思うことは度々あった。しかし、この地の熱い思いの中で美しさを誇っていた数万本の松原が、一瞬の内に消え去るとは、私に限らず誰も思ってはいなかったろう。
高田の松原を歩いた後に、近くの「道の駅」で休んでいたとき、和太鼓を練習する音が聞こえた。それを見学させていただき、写真を撮り録音させていただいた。
2011年3月11日、14時46分に発生した東北地方太平洋沖地震は大規模な津波を引き起こし、約40分後に第1波がこの地を襲った。最大17mの高さの津波は、松原の木をほぼ全てなぎ倒し、陸前高田の市街地にも壊滅的な被害をもたらした。あの日、遠くに絶え間ないサイレンの音を聴きながら、停電した部屋の中でラジオを聞き、陸前高田市が津波で壊滅状態であることを知った。福島の原発被害と共に、それは衝撃的だった。写真を撮り、録音させていただいた氷上太鼓のメンバーへの思いが胸の動機を激しくした。後日わかったことだが、このメンバーの何人かが波に飲まれ帰らぬ人となったという。
奇跡の一本松は、アカマツとクロマツの交雑種で、高さは約27.7m、胸高直径は87cm、樹齢は175年だった。松原の中でもとりわけ大ぶりな個体だった。この一本松は、倒れずに津波に耐え、枝も幹も無事な状態で残った。この地域一帯は、松原はもちろん市街地の殆どが流され、瓦礫に埋もれた中で、ただ一本、空に向かって高く立っている一本松は、震災からの復興への希望を象徴するものとしてとらえられるようになり、誰言うとなく「奇跡の一本松」と呼ばれるようになった。
しかし、震災を生き延びた一本松だったが、その後の生育は当初から厳しい状況にあった。各地から造園業者などが集まり、プロジェクトチームを組織して一本松の保護に当たり、一時は新芽が伸び、緑葉の伸長と松かさの形成も見られるなどしたが、その年の10月には枯死が確認された。松原がすべて流され、市街地の瓦礫の原のかなたに、最後の力を振り絞り、凜として立ち、残された人々に希望を少しずつ分け与え、一本松は立往生した。
その後、震災からの復興を象徴するモニュメントとして残すことになり、幹を防腐処理し心棒を入れて補強し、枝葉を複製したものに付け替えたりするなどの保存作業を経て、現在、震災モニュメントとして元の場所に再び立てられた。その命は枯れたが、多くの方々が挿し木などでその命を繋いでおり、いずれの日か、その奇跡の一本松の子孫が、この地に繁茂する日がくるかもしれない。