2010/07/08取材 山形県鶴岡市

 

歴史散策⇒義康首塚

この日は鶴岡市での仕事の前に、松根城跡を訪れた。下調べで検討をつけていた場所はすぐにわかったが、どうも城跡らしくはない。最上氏の、六十里越えの庄内側を守る平城だったのだが、現在は集落の中に飲み込まれているようだ。それでも地形的に納得がいかず、ゆっくりと周囲を車でまわった。

地元の方に尋ねてもわからない。しかし、地元に詳しい方がいるということで、その方を訪ねた。なんと、その方はどうやら松根氏の一族にあたるようで、そのお宅の位置が松根城そのものだった。

許しを得て、その敷地をまわり写真を撮らせていただいた。普段の生活の中に、空堀や土塁が結構よい形で残っている。公園として整備されているわけでもなく、寺や神社として残っているわけでもないのだが、この地に残る伝承とともに、大事に受け継がれているようだ。

いろいろと教えていただいているうちに、思いがけずに、近くに最上義康の首塚があるという。義康は、最上義光の長子で、後継問題からこの地の近くで暗殺されている。この地に伝わる話では、この方の先祖が、討たれた義康の首が敵の手に渡らないように、密かにこの地に運び葬ったものだという。

この義康の暗殺は、最上藩改易の遠因となったもので、いつ完成するかもわからないながら私が書きかけている、小説「蟠龍雲に沖いる」の第二部の導入部となっているものだ。この義康の暗殺は、誰が命じたのか、その裏に何があるのか、今も多くの謎に包まれている。

早速に教えていただいた場所に向かった。まったく予定外の取材で、下調べしての取材とはまた別の心を躍らせるものがある。これだから「歴史散策」は止められないのだ。

現地は、近くに「弘法の渡し」の伝承も残る古い街道沿いだが、現在は何の変哲も無い、地元の方々が農作業で使っている舗装もされていない農道だ。注意深くゆっくりと車を走らせていると、それらしい古碑があった。どの碑が「首塚」かはわからない。碑の面を一つ一つ見ていくと、最も小さい碑に「首塚」の文字が彫られている。

石碑そのものはどうも比較的新しいようで、恐らくはこの地に伝えられる伝承により、後生の人々が供養のために立てたものだろう。勿論その碑は史跡とされているわけでもなく、その伝承も史実として認定されているものでもないだろう。

しかし、歴史の研究者でもない私にはそれはどうでも良いことで、そのような伝承が、この地に古くから伝えられ、大事に受け継がれていることこそが重要であると思う。真夏の明るい日差しの中のこの碑は、これからも歴史の表に出てくることはないだろうが、静かに受け継がれていってほしいものと思った。