2012/07/22

 

今回の東北大震災では、多くの被災地の方々が自衛隊にはお世話になった。震災の翌日から、電気も水道もガスもストップし、食料もままならない中、仙台港方向から火災の煙が立ち上り、遠くで空気を切り裂くようなサイレンの音が絶え間なく鳴り響いていた。そんな中で飛び交う自衛隊の救難ヘリコプターの音は頼もしいものだった。

先日、テレビのニュースで、首都圏大震災を想定しての訓練の一環として、自衛隊の20人?ほどの一部隊が、重装備で4時間の道のりを徒歩で東京に入る様子を写していた。そのとき、特定の政治勢力の方々かもしれないが、「帰れ!帰れ」とコールしていた。

東北大震災が起きるとすぐに、多賀城の陸上自衛隊では救難部隊を編成し命令を待ち、津波の泥水が押し寄せる中出動した。自衛隊の方々やその家族にも被災した方が多くいたはずだ。多くの隊員の方々は、自分の家族の安否を気にしながら救援に出動していった。

今回、大きな被害を受けたものの、復興のための一大物流拠点としていち早く復興された仙台港に、自衛艦の「霧島」と「さざなみ」が入港し一般開放された。これまでは、このようなイベントに出かけることはなかったのだが、あの東京の「帰れ!帰れ!」の自衛隊員への罵声を聞いたこともあり、出かけることにした。

あの東京での「帰れ!帰れ!」のようなことがあれば、それを写真に撮り、このサイトで手厳しく紹介しようと思っていたが、幸いなことにそのようなことはなかった。

「霧島」は、日本にある4隻のイージス艦の内の1隻で、あの北朝鮮が叫び続けている「無慈悲なミサイル攻撃」に対して対抗できる数少ないものの内の1つだ。普段は外側から見ることしかできないのが、この日は艦内まで見て周ることができる。

「霧島」は、1万tほどもあり、自衛艦としては大きいほうなのだろうが、多少広さを感じるのは甲板部だけで、内部は狭く階段はどこも急だ。いざ戦闘となれば、乗組員たちはこの中を駆け回るのだろう。

狭い通路を通り、急な階段を上がり、艦橋を眺め、また急な階段を下り前甲板に出た。私は船を眺めるとき、最も好きなのは前甲板からの空に高くそびえるマスト周辺と、張り巡らされた空中線である。主砲や機関砲も入れて写真を撮った。

かつての海上戦闘は砲撃戦であり、装甲の厚さが重要なものだった。しかし隊員の方の説明によれば、現代に海上戦闘が行われれば、一発の対艦ミサイルが命中すれば、沈没あるいは戦闘不能になるという。そのため、装甲は薄くし艦の速度を上げ、また装備も攻撃を回避するためのものが主になっているということだった。主砲の砲塔すら強化プラスチックで、装甲としての役割はないと云う。

昨今、日本周辺の情勢は不穏なものといえる。特に北朝鮮は「無慈悲なミサイル攻撃」を叫んでいる。それらの国々は、日本の平和憲法の「信義」に足る相手とはとても思えないし、恐らくはその平和憲法を日本の足枷程度にしか考えていないだろう。

私は、北朝鮮の「無慈悲なミサイル攻撃」が単なる口先だけの脅迫とは思っていない。一連のメッセージを、荒唐無稽なものと軽く考えるのは、あまりに平和ボケ過ぎると思っている。

民主党政権での沖縄を巡る迷走はその表れだろうが、「米軍は出て行け」と言うのなら、永世中立国のスイスのように、徹底した自主防衛と、独自の抑止力を考えなければならない。日本はこれまでのように自衛隊をタブー視するのではなく、抑止力として真剣に考えなければならない時期に来ているのではないだろうか。

もしかすると、この「霧島」や「さざなみ」が将来、戦闘状態に入ることがあるかもしれない。できればそのようなことが無いように、これらの自衛艦が「張子の虎」としての役割を全うしてもらいたいものだ。

自衛艦を降りるときに、丁寧に挨拶する隊員の方に、震災の時の感謝も込めて、「ありがとう」と答え帰途に着いた。