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宮城県栗原市若柳

震災前取材

 

若柳の町を抜けて、北西に大岡土手をしばらく行くと、堤防下に石碑が並んで建っている。これが只都坊(ただつぼう)夫妻の供養碑であり、碑に下る坂は只都坂と呼ばれている。

江戸時代の元禄の頃、この辺りは、迫川が度々氾濫し、未開拓の野谷地が多かった。村人たちは新田をつくるため、迫川に堤防を築くことになった。しかし、いくら堤防を造っても雨のたびにくずれ、幾度も初めからやり直さなければならなかった。

困り果てた村役人は、人柱を立てることを思いつき、村人たちに相談したが、誰を人柱に立てるかとなると話がまとまるはずもなかった。そこで、翌日一番に、この地を通った者を人柱とすることに決まった。

次の日の朝、村人らが息を潜めて待ち構えていると、夜明けの光がさしはじめるころ、盲目の六部の只都坊が杖をつきながらこの地を通りかかった。村人たちは、いやがる只都坊を無理やり人柱とし、水の中へ沈めてしまった。やがて堤防は完成し、その後大雨でくずれることもなく、村は毎年豊作に恵まれた。

その後、只都坊の妻が行方不明の夫を探しこの地へやってきた。そして、無理やり人柱にされたことを知り、3日3晩泣き明かし、村人を恨みながら迫川に身を投げて死んでしまった。

村人たちは、只都坊夫妻の祟りをおそれ、この地に二人の供養碑を建て、手厚く弔いをしたと云う。その後、誰言うともなく、この坂は「只都坂」と呼ばれるようになった。