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宮城県亘理町泉ヶ入…大雄寺

  伊達成実の廟は、亘理伊達氏の菩提寺の大雄寺にある。御霊屋は正保3年(1646)、成実の死後まもなく建てられたと推定されている。 一間四方の宝形造で、内部に位牌と成実の木像が安置されている。伊達成実(しげざね)は、信夫郡大森城主伊達実元の嫡男として生まれ、伊達政宗とは従兄弟にあたる。幼少期から政宗に仕え兄弟のように育ち、長じては、智の片倉景綱、武の伊達成実といわれ、伊達軍団の双璧をなした。天正13年(1585)の人取橋の戦い、天正17年(1589)の摺上原の戦いなどで多大な軍功を挙げた。 豊臣秀吉の小田原攻めの折には、片倉景綱とは意見を異にし、主戦論を主張した。結局政宗は家康の助言もあり小田原に参候した。 成実は黒川城に留守居役として残留し、もし政宗の身に不測の事態が起これば、伊達家を継いで秀吉に抵抗することになっていたという。 葛西大崎一揆討伐の折には、政宗が一揆の黒幕ではないかという疑念が蒲生氏郷から出され、この疑念を解く為に、浅野長政の斡旋で氏郷の人質となって名生城に入った。その後、氏郷は成実の忠誠心と人柄に強く心を打たれ、成実を開放したと云う。 文禄4年(1595)、政宗のもとを去り高野山に出奔した。この理由は、朝鮮出兵の折の武功に対しての恩賞に不満があったとも言われているが、真の理由は定かではなく、政宗による天下取りの野望のために、秘密工作の必要で隠遁したとする説もあり、またこのとき、所領だった角田城が攻められ、成実の妻子が殺されたといわれているが、これにも異説がある。 慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いが起こると、上杉景勝から5万石で上杉氏の家臣となるように誘われたり、徳川家康からも家臣になるように誘われたが、これを断り、同年秋、留守政景や片倉景綱の説得によって伊達氏に帰参し、慶長8年(1603)には亘理郡に所領を与えられ一門衆として復帰を果たした。 成実は人柄がよく、家臣からも大変慕われていたという。また、武勇に優れた猛将で、兜には百足は退かないということに因んだ百足の前立をつけていた。政宗との仲は年も近いことから、主従というより兄弟のように良かったようで、政宗から成実に宛てて、「別に用はないが、この頃逢ってないから手紙を書いた」等と書き送った書状も残されている。 亘理城主として帰参後は、最古参の重臣として政宗の名代、補佐役に徹した。伊達政宗の死後は二代忠宗にもよく仕え、藩主忠宗の名代として江戸に上るなど、一門次席として忠宗を支えた。正保3年(1646)6月に死去。享年79。