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宮城県栗原市一迫真坂字館浦…龍雲寺

震災前取材

寛文事件(伊達騒動)を題材にした有名な歌舞伎「伽羅千代萩」に幼君亀千代を悪人から守りぬいた烈婦として「政岡の局」が登場する。この「政岡」は、白河義実夫人をモデルにしたものである。

夫人は、中世に会津五郡を領し400余年続いた名家会津黒川城主の葦名氏が、秀吉に領地没収された後に、政宗に迎えられた民部盛信の三世、重信の息女である。

白河家に嫁ぎ、元禄9年(1696)に72歳で没した。

義実は、奥州白河郷を含む三郡諸郷を領したが、葦名氏と同じ運命をたどった白河城主結城氏で、政宗に招かれた結城(後に白河氏を称する)義親の三世、真坂小坪館主である。夫人との間に、一女二男を残し、若くして世を去った。

万治3年(1660)、伊達三代藩主綱宗が、不行跡を理由に蟄居を命ぜられ、その後隠居を命ぜられ、当時二歳の亀千代(綱村)が伊達家を継ぐことになった。政岡は直ちに「お乳人」として召しだされ、幼君の養育にあたった。

しかし、家中では先代・綱宗の時代から続く家臣団の対立や大叔父・伊達宗勝の専横などが続き、伊達氏の家中は混乱が続いた。寛文6年(1666)には、綱村自身が何者かの手(宗勝が首謀者と言われている)によって毒殺されかけたこともあった。

寛文11年(1671)に事件が終わり、藩主が仙台城に帰るまで江戸上屋敷で奉公した。その後、嫡男上野宗広は「御一門」に列せられたほか、藩主から、「永代常式諸役御免」の印書等、数々の恩遇を受けた。

享保3年(1718)、一迫真坂館主を命ぜられ、明治期まで続いた。

なお、「政岡」のモデルは、綱村生母の三沢初子と考える説もあり、仙台市榴岡にある「政岡の墓」は、この生母の三沢初子の墓である。

 

・富塚重信夫妻の墓

 富塚氏は伊達家譜代の重臣で、天正19年(1591)から享保3年(1717)まで、およそ130年間、一迫真坂を在所としていた。家格は宿老で、代々藩政に大きな功績を残している。

 冨塚重信は寛永17年(1640)に検地総奉行に任じられ、仙台藩郡村制度の基礎となった大事業を三年かけて成し遂げ、その功により加増されて2500石となった。

 夫人は、志田郡松山邑主の、茂庭良元の娘で、人取橋で戦死した鬼庭左月の曽孫にあたる。