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宮城県仙台市青葉区大手町

2015/07/25取材

 

仙台城は伊達政宗が築城した大規模な山城。この大橋は、仙台城下を東西にほぼ一直線に、原町から、二十人町を通り、大町の幹線を通り、芭蕉の辻を経て仙台城大手門にいたる重要な位置にあった。

仙台城は、その外堀の役割を広瀬川とし、仙台城の東側は、広瀬川の断崖で囲まれており、断崖が切れているのはこの大手口と澱橋口だけで、大手門に通じるこの橋は、防禦上もっとも重要な橋であった。

古図には、現在の大橋より凡そ10mほど低い位置にかけられた太鼓橋状の橋であったようで、城下から橋への口には、衛士の詰め所が置かれていた。

・キリシタン殉教の碑

慶長18年(1613)、江戸幕府によりキリシタン禁教令がしかれ、元和6年(1620)には仙台領でもキリシタンの迫害が始まった。仙台藩は比較的切支丹には寛容で、多くの切支丹が仙台領に逃れてきていた。政宗は仙台城築城当時は、まだ天下への野望を捨ててはおらず、切支丹たちの製鉄技術や、大船築造技術などをさかんに取り入れていたようだ。 しかし仙台藩でも、幕府の求めに応じざるを得なくなった。仙台藩では元和9年(1623)冬、奥羽山脈中に潜伏中のポルトガル人宣教師ガルバリヨ神父らを布教しないことを条件に助けようとしたようだ。しかし彼らはそれを拒否し、殉教を覚悟したガルバリヨと8名の領民が捕えられ仙台に護送された。 ガルバリヨらは厳寒のさなか、大橋の下の水牢で水責めにあい、全員殉教した。

しかし、仙台藩の切支丹迫害はこれはほんの序章にすぎなかった。伊達政宗の死後、仙台藩の製鉄や鉄砲製造技術を危惧していた幕府は、さらなる徹底した切支丹の取り締まりを要求してきた。政宗亡き後の仙台藩にはこれに抗う術はなく、その後二度にわたり仙台領北部の大籠地区などで徹底した切支丹弾圧が行われた。