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宮城県登米市東和町米川西上沢

震災前取材

後藤寿庵は、伊達政宗の家臣で、当時の日本では有力な切支丹だった。領地の水沢福原には天守堂もあり、ガルバリヨ神父などを招き、ミサも行われていたと言う。

しかし、切支丹禁令が出ても切支丹には比較的寛容だった伊達藩も、徳川家光の時代になると、幕府の意向に抗しきれず切支丹への弾圧が始まった。

元和9年(1623)、政宗は、有能な家臣である寿庵を惜しみ、布教をしない、宣教師を近づけないことを条件に信仰を許そうとしたが寿庵はこれを拒み、ガルバリヨ神父とともに伊達家の領地を脱出した。ガルバリヨ神父は途中で捕らえられて、仙台に送られ、広瀬川の水牢で殉教したが寿庵は南部領に逃亡したとされる。

しかし、この地区に残る伝承では、その後、南部藩の浪人として東和に住み着いていたが、見つかり襲われ捕縛されこの地で刑死したという。

さらに伝承では、その遺体は近くの山中に、この世に出てこないようにと逆さまに、上に大きな鉄のなべをかぶせられ埋められた。その跡には桂の木が植えられ、最近までそれは残っていたと云う。

墓石は子孫によって立てられ、墓碑銘はなにも書かれていない。

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