岩手県久慈市小久慈町
2012/03/31取材
久慈地方は、国内最大の琥珀産地である。久慈琥珀博物館は、古くから琥珀採掘の行われた地にある国内唯一の琥珀専門博物館である。
博物館には、琥珀の工芸品が展示され、その他、琥珀に関する伝説や琥珀が出来るまでの歴史など、多くの資料が展示されている。
琥珀は、北海道千歳市の旧石器時代(先土器時代)の柏台遺跡から、約2万年前の琥珀製小玉が出土した。これにはヒモを通す為の穴があいており、かなり古い時代から装飾品として使われていた。
縄文時代に、特に関東、東北地方東部、北海道など、琥珀産地を中心とした地域の遺跡からは琥珀が数多く出土し、この頃既に琥珀の流通、交易が行なわれ、各地で装飾品として加工されていたことが分かる。
古墳時代になるとさらにその範囲が広がり、現在の奈良盆地周辺に点在する有力者たちの古墳から、琥珀製の勾玉、夷玉、丸玉などが出土し、調査の結果から、その多くは久慈地方産であることが分っており、中央と久慈地方の交易ルートが存在していたと考えられている。
室町時代頃からは久慈地方での琥珀採掘が産業化されはじめ、当時の江戸、京都では需要が高まりつつあった。江戸時代には、南部藩の特産品として藩の管理品目に定められ、各地で大掛かりな琥珀採掘が行われるようになり、南部藩の貴重な財源となった。
当時は、良品は細工物としてつかわれたが、その他、塗料、医薬品などにも用いられた。また当時、琥珀のことを”くんのこ(薫陸香)”と呼び、香としても多く使われたようだ。慶長19年(1614)、大阪の陣の際に、南部利直が徳川家康の本陣にこの地の琥珀を「香」として持参し、大変珍しがられたことが記録されている。
琥珀は古くから世界中で珍重されていた。東洋では、特に赤みの強い琥珀は「龍血の琥珀」と呼ばれ、神秘の力が宿る石と考えられ、また生命の復活と再生の力を持つと考えられ、大和朝廷の時代には権力の象徴と考えられていた。
ヨーロッパでは、約1.5万年前、デンマークの遊牧民族が装身具、護符などとして使いはじめた。18世紀前半までは海の産物と信じられ、当時、琥珀は北方の金といわれ、同じ重さの金と琥珀が交換され、また小さな琥珀の細工物1つと健康な奴隷1人が交換されたほど高価なものだった。
ヨーロッパでは琥珀は「人魚の涙」とも呼ばれる。海の神ネプチューンの末娘の人魚姫が、若い猟師と恋におち、二人の仲を怒ったネプチェーンは、若者を海に沈めてしまった。それを嘆いた娘の涙は、海に落ちていつしか琥珀となったという。
またギリシャ神話では、太陽神の息子パエートンは、父の忠告を聞かずに無理に太陽の馬車に乗り、天まで駆け登り暴走し、大地は火に包まれた。それを見かねた全知全能の神ゼウスは、パエートンに雷霆を投げて打ち落とし、パエートンはエーリダノス川の河口付近に落ちて死んだ。この死を悲しんで姉妹が流した涙が固まって琥珀となり、姉妹はそのままポプラの木になったと云う。
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