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福島県棚倉町棚倉字風呂ヶ沢…赤館公園

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鎌倉初期、この赤館は伊達氏が得た飛び地であった。南北朝初期から室町時代を通しては、在地領主である赤館氏が支配した。赤館氏は白河結城氏の影響下にあり、比較的小規模の領主だった。築城年代や築城者については定かでないが、赤館氏の居館だったと思われる。

この地域の戦国期は、白河結城氏、会津葦名氏と、常陸の佐竹氏の抗争という形で進行した。やがて佐竹氏は南郷に侵攻し赤館以南の南郷館を支配し、元亀2年(1571)には車猛虎が城代を務めた。元亀3年(1572)、結城義親は南郷の領土奪回に出て南郷一帯で激戦となった。小田原の北条氏はこれを好機と佐竹領の下妻城を攻めたので、佐竹軍は和睦を結び赤館を放棄し南転していった。しかし以後毎年の如く、棚倉は戦禍を被った。

天正3年(1575)、赤館城は佐竹軍の攻撃の前に再び落城し、佐竹氏の有力家臣、東義久が城代として入城し、佐竹氏の城として、前代とは逆に北側の防御が固められた。天正18年(1590)伊達政宗はこの赤館で佐竹氏と対峙した。しかし豊臣秀吉の奥州仕置により白河の結城義親は改易となり、棚倉は佐竹領地と公認され、赤館は佐竹義宣の持城となった。

慶長5年(1600)、会津征討に際し、石田三成と近い佐竹義宣はこの赤館まで軍を進めたが、家臣の猛将車猛虎を上杉に派遣し、車は伊達勢と戦うなど西軍よりに動いた。このため佐竹義宣は、秋田久保田へと転封となり、赤館は幕府天領となった。

慶長14年(1609)、立花宗茂が1万石で赤館城主となり、元和8年(1622)には丹羽長重が5万石で封入した。長重は棚倉城を築き移り、以後赤館は廃城となった。