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福島県須賀川市木之崎字岩崎山

  • 城山
松山城は、岩崎山史跡公園となっている岩崎山を先端とする台地に築かれた連郭式の山城である。

岩崎山史跡公園の西側展望台の所に松山城址の標柱が建っているが、主郭はこの北の奥の山頂にあり、城跡の殆どは未整備である。山頂部から北側は堀切で切られ、山頂部には土塁が巡らされた郭が残る。南側と東側の尾根に郭が配され、南の尾根の途中にも切掘が設けられている。尾根の南端に、城址の標柱があり、ここは断崖上の小さな平場になっており、かつては物見台だったと思われる。

この地域には、長沼城や横田城が近接して存在し、二階堂氏、葦名氏、田村氏との間の抗争の地となっていた、松山城は、二階堂氏の有力な支城であったが、数度にわたり攻められている。天文6年(1537)、葦名盛氏は田村隆顕と盟約し松山城を攻めた。また永禄5年(1562)には田村勢が松山城を奪い籠城、二階堂氏は城を包囲し兵糧攻めを行い田村勢を撃退している。永禄9年(1566)には葦名盛氏、盛興父子が松山城を奪い近くの横田館を攻め横田氏を捕えたと云う。

しかし、葦名氏は天正17年(1589)伊達政宗との摺上原の合戦で滅亡した。会津を手中にした政宗は二階堂氏に攻略の手を伸ばし、この松山城に入り二階堂氏の矢田野城と横田城を攻略した。さらに伊達勢は須賀川城の西の守りであった八幡崎城を攻め落とし、ついに須賀川城も落城、二階堂氏の所領も併呑されることになる。