スポンサーリンク

福島県浪江町川添南大坂…正西寺

 

現在の福島県双葉郡は、かつては標葉(しねは)、楢葉(ならは)の二郡に分かれており、標葉郡は鎌倉時代初頭からほぼ独立姓を保持し、標葉氏が支配していた。

標葉氏は、岩城氏と同じ平国香の二子繁盛の末である海東小太郎成衡の四男隆行を祖とすると伝えられる。成衡は、源頼義の娘の徳尼を妻とし男子5人をもうけた。嫡男隆祐は楢葉太郎を称し、次男隆衡は岩城次郎を名乗り、三男が岩崎三郎隆久、四男が四郎左衛門尉隆行で陸奥国標葉郡標葉庄を領して標葉氏を称し、五男は行方郡を領し行方五郎と称した。保元年中(1156~58)、標葉隆義のとき下向し、「請戸の御館」に移ったとされる。しかし詳細は定かではなく、異説も多くある。

南北朝期には、南朝方であったようで、北朝方の相馬氏と岩城氏にはさまれながら勢力を維持していた。持隆の時には北畠顕家の二度の西上に従い戦ったが、顕家は敗死し持隆は帰国したが、その後標葉氏は衰退したと考えられる。

しかし、それでも戦国時代には、岩城氏、相馬氏ら奥州海道筋の豪族たちと抗争、同盟を繰り返し、標葉六騎七人衆とよばれる一族を率い、標葉郡に一定の勢力を保っていた。

嘉吉2年(1442)、標葉氏の当主の標葉清隆は、本拠を権現堂城に移して攻撃に備えていた。清隆は、岩城氏、相馬氏の侵略を食い止めていたが、嫡男の標葉隆成には人望がなく、清隆が高齢化するにつれ、標葉氏を支えていた六騎七人衆ら重臣たちの間にも不安が広がっていた。

これを知った相馬高胤は、標葉氏家臣に内応を盛んに働きかけ、長享元年(1487)12月、大軍をもって権現堂城を攻めた。しかしこのときは、標葉一門筆頭の泉田隆直や藤橋隆豊らは清隆に従い激しく抵抗、高胤は城を落とすことができぬまま、明応元年(1492)6月、陣中で急病により没した。

相馬軍は、高胤の死を秘したまま小高城に戻り、高胤の跡は13歳の嫡男の盛胤が継ぎその後も標葉氏と対峙した。その5年後の明応元年(1492)冬、18歳の盛胤は、標葉攻めを開始した。盛胤は標葉氏一門の泉田隆直の守る泉田館を囲み、隆直に盛んに降伏を勧めた。先の戦いでは標葉清隆に従い相馬氏と戦った隆直だったが、このときは標葉隆成の器量の無さにすでに宗家に失望していたようで降伏した。

一門筆頭の泉田隆直の降伏に標葉氏家臣団は動揺し、標葉一門の藤橋隆豊らが密かに相馬勢に使者を送り内応を約束した。相馬盛胤は隆豊らと謀り、標葉清隆、隆成父子の篭る権現堂城を攻め、隆豊は城門を開き権現堂城に火をかけた。相馬勢は城内に乱入し、清隆、隆成父子ももはやこれまでと城内で自刃し、300年に渡り標葉郡を支配していた標葉氏は滅亡した。

標葉氏一門の泉田氏や藤橋氏、熊川氏らは、相馬氏の一門格となり、相馬氏重臣としてその家系をつないで行った。