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福島県須賀川市栗谷沢…翠ヶ丘公園

 

 

  • 暮谷沢の坂

 

 

別名:栗谷沢の坂

翠ヶ丘公園の南側にある栗谷沢の坂は、三千代姫の悲劇を今に伝える地である。

二階堂為氏は、幼くして二階堂氏の跡を継いだため、鎌倉に居し、所領の須賀川には代官として一族の二階堂治部大輔を置き治めさせていた。しかし、治部大輔には専横の事が多く、為氏の意にも従わなくなった。そのため為氏は、みずから須賀川に下向することに決し、文安元年(1444)須賀川に下向した。しかし治部大輔は城を閉ざし、為氏らを攻め立ててきた。

為氏は一旦退き、城地の回復を図っていたが、治部大輔も和解を考えるようになり、自分の娘の三千代姫を為氏の室とすることで和睦をはかってきた。三千代姫は教養深く、奥州でも屈指の美女であり、為氏は一目で気に入り和睦を受け入れた。為氏は、三千代姫との暮らしに満足し、治部大輔との確執もわすれ、城地の回復も進まなかった。

このような為氏に対し、家臣たちの中には諫言を行う者も表れ、為氏自身も家臣たちの言葉を入れ、身を切る思いで三千代姫を離縁した。離縁された三千代姫はこの暮谷沢まで送られてきたが、
「人とわば、岩間の下の涙橋、流さでいとま、くれや沢とは」
と辞世の句を詠み、乳母や従侍ともどもこの涙橋の袂で自害した。15歳だったと伝えられる。

この事件が発端となり、為氏方と治部大輔方の攻防は本格化し、文安5年(1448)、為氏の須賀川城攻めが開始された。戦いは激戦となり、一時は為氏も討死するかと思うほどの激しい戦いが繰り広げられたが、ついに治部大輔は城に火を放ち、為氏方の勝利に帰した。

この坂を見下ろす高台には、この三千代姫やともに自害した従者を弔う石碑と、姫の像を納めた堂宇が建てられている。