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福島県浪江町北幾世橋字北原…大聖寺

 

大聖寺は、平安時代に会津恵日寺の徳一大師により創建されたと伝えられる。その後この地は、元禄14年(1701)、相馬中村藩五代藩主相馬昌胤の隠居所となり、北原御殿と呼ばれていた。

昌胤は、延宝7年(1679)12月、兄の四代相馬藩主の相馬貞胤が、若くして男子を残さず死去したため、末期養子として家督を相続した。昌胤は藩政改革を行うなど名君としてその名を残している。しかし男子にはめぐまれず、元禄10年(1697)正月、長女の品姫に、佐竹義処の次男の叙胤(のぶたね)を婿養子として迎えた。
その後、昌胤自身に男子が生まれたが、元禄13年(1700)頃には家督を婿の敍胤に譲ることを決め、敍胤の藩主としての権力を磐石なものにするために、さまざまな手を打ちはじめた。これらは自身の実子の東千代松との間に、跡目争いなどが生じないようにしたものと考えられる。その後、六代藩主となった敍胤は、実子がありながら、昌胤の実子の東千代松を後継としている。

元禄14年(1701)、昌胤は37歳で家督を叙胤に譲り、この地に移り、享保13年(1728)に没するまで住んだ。

大聖寺の山門は、昌胤の住んだ館の正門で、銅鐘は、宝永6年(1709)に昌胤が奉献したもの。また、周囲に土塁状の地形が残っており、大名の隠居城の様相を伝えている。
また、西側の斜面にはアカガシの巨木があり、推定樹齢は400年から700年と云われ、昌胤が隠居所を構えていた時には、すでに巨木として存在していたと思われる。