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山内氏の出自に関しては、藤原秀郷流とするもの、藤原師尹流とする二説がある。すなわち、藤原秀郷の後裔佐藤左衛門尉公清は、藤原師尹の血をひくという資清を猶子とした。やがて、資清は主馬頭に任じられ、はじめて源頼義の郎党になったとある。資清の子資通は義家の郎党として後三年の役に出陣し、義家から厚い信頼を受け、豊後権守に任じられた。資通には親清、通清らの男子があり、嫡男の親清は鳥羽上皇に仕えて北面の武士となり、左衛門少尉への任官を受けた。

しかし、これらの系図は中央における山内氏のものであり、会津山内氏に関する史料とはなり得ないものである。他の系図から、山内氏が奥州に下向したのは通俊のときで、通俊は篠河管領足利満貞に従って奥州入りし、時に応永10年(1403)大沼郡横田に城を築き、大沼郡を拝領し、通俊は一族とともに下向したというが、定かではない。

季基のとき、鷹巣山に中丸城を築き本拠とし、麓下の集落を「横田」と改めた。山内氏は横田を本拠に野尻・川尻・沼沢・布沢・滝谷・桧原・西方に一族を配し、「山内七騎党」と呼ばれる組織により、所領を支配していたようだ。

長禄2年(1458)、葦名氏、南山長沼氏、白河結城氏らに兵を出させ、田島鴫山城で合戦を起こさせるなど、室町時代には、山内氏が葦名・長沼・白河結城氏らを使嗾するだけの実力を有していたようだ。室町から戦国時代には、文明5年(1473)山内俊詮が野尻丸山に城を築き、享禄4年(1531)には、俊安とその俊興が沼沢に丸山城を築き、天文13年(1544)には俊清が川口に玉縄城を築き、同14年に氏信が西方に鴫城を築いた。

戦国期の山内氏は山間部という立地的条件から侵略の対象とならず、近隣の戦国大名、葦名氏・越後長尾(上杉)氏と従属的な同盟関係を結び、またその一方で、葦名氏・越後長尾氏と対峙していた伊達氏・甲斐武田氏などとも関係をもっていた。

このような中で、山内氏は葦名氏が会津統一を進めていく中にあって、独立した外交権を保持する奥会津の領主として存在した。天文12年(1543)7月、葦名氏は臣従しない横田山内氏を懲らしめるため、盛氏が出陣してきた。「横田くずれ」と呼ばれ、戦いは葦名氏の敗戦に終わった。しかし、この戦いは横田山内氏にとって勝利はしたものの、翌年、山内俊清は隠居し、家督を舜通に譲っている。俊清は合戦の責任をとって隠居することで、葦名・山内の関係正常化を図ろうとしたものだろう。

山内氏は峻険な山に囲まれた天険の地に割拠しあったことで、葦名氏はもとより、武田・上杉、佐竹氏らに対して、自立路線を歩んでいた。しかし永禄元年(1558)、横田山内が、葦名氏の岩谷城を攻撃して城を奪った。葦名盛氏は激怒して横田山内を討とうとしたが、山内一族の沼沢氏の取計らいで横田山内は盛氏の旗下に属することになり、以後、山内氏は葦名氏に従うようになった。

この事件は、葦名氏が会津統一を推進していくなかで山内一族の諸氏が独立性を失い、葦名氏の支配に組み込まれていったものといえる。

葦名氏は盛氏の代に大きく勢力を拡大した。しかし、盛氏の隠居後に当主となった盛興がわずか26歳で死去するなどにより、後継問題で、葦名氏は動揺・分裂状態となった。結局、佐竹義重の次男の佐竹義広が迎えられた。葦名氏は後嗣問題が続いたことで、配下の小領主に対する求心力を弱め、したがって、山内氏も氏勝の代には、容易に義広の言うことを聞かなくなった。

天正16年(1588)閏5月、の葦名氏と伊達氏との郡山での戦いで、葦名義広は、山内氏に軍勢を催促したにも関わらず、山名氏勝は参陣しなかったようだ。さらに翌年の天正17年6月の摺上原の戦いにも山内氏勝は参加しなかった。

葦名氏を攻め滅ぼして会津黒川城に入った伊達政宗は山内氏に対して臣従を求めた。一族の布沢・川口・野尻らは臣従を主張したが、これに対して氏勝は抗戦を決めた。伊達勢は降参派を案内に只見川を遡り、山内領に攻め入り横田を落したが、氏勝は奥に逃亡した。伊達勢は一気に平定する作戦をとったが、地形の複雑な山岳地帯のうえ地理不案内でもあり強攻ができなかった。

この時期、越後の上杉景勝は、豊臣政権の中枢にあり、山内氏は上杉氏と誼を通じていた。山内氏勝は大塩・水窪両城の天険に拠ることに決し、自ら水窪城に入り、越後の上杉景勝より八十里越えで三千人、六十里越えで千五百人の応援を得て、伊達氏に抵抗を続けた。

この時点で伊達政宗は、小田原征討に対して参陣することを拒否し、南奥制覇を優先していた。山内側は、上杉景勝を通して石田三成に接近し、三成からは書状によって激励されていた。その三成書状には、3月には小田原征伐の軍を出し、その後ただちに黒川城を攻め落して政宗の首を刎ね、大沼郡伊北は山内氏に安堵する、等の条項を含むものであった。

その後、山内勢は、大塩・水窪両城の守備をさらに堅固として敢えて打って出ず持ちこたえた。この間、伊達政宗は小田原に赴いて秀吉に降り、会津・仙道の地を返上し、からくも秀吉の征伐を逃れ一命をとりとめた。しかし、氏勝は伊達軍と対峙していたため、小田原に参候することができなかった。さらに、秀吉が会津に下向してきたときにも、おりからの病で臣従の実を示すことができなかった。

結局、山内氏は葦名氏の旧臣として豊臣政権に認識され、新恩の期待も空しく領地の安堵はならなかった。こうして、小さいながらも会津の戦国大名として一勢力を誇った山内氏は、近世大名として生き残ることはできず没落した。その後の氏勝は上杉氏の家臣となり、その領地越後国魚沼郡上田庄浦佐郷大浦に住し、慶長13年(1608)3月、69歳で病死した。