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国道47号線の、現在、岩出山の道の駅付近は、名馬「池月」を産した地と伝えられる。

平家物語の「宇治川のこと」では

頼朝は、「生食(いけづき)」、「磨墨(するすみ)」と言う、名の聞こえた二頭の駿馬を持っていた。梶原源太景季は、「生食」が欲しく、頼朝に懇願したが、「これも劣らぬ名馬ぞ」と、「磨墨」を賜った。ところが暫くして、頼朝は佐々木四郎高綱に「生食」を与えた。佐々木高綱は感激し、「この馬にて、宇治川を真っ先に渡って見せましょう。もし、死んだと聞かれたなら、人に先を越されたと思し召されい」と、これを貰い受け、颯爽と出陣した。

先に出立した梶原は、駿河の国で、高所から続々と上り来る馬の群を眺めていたが、さすがに、「磨墨」に勝る馬は見当たらない。しかし、ふと見ると、金覆輪の鞍を置き、小房の鞦(しりがい)を付けた、白轡の馬が、数人の家士を引き摺りながら、なおも踊らんばかりの態にて現われ出た。それはまさしく、頼朝に拝領を断られた「生食」だった。聞けば佐々木高綱が頼朝から拝領したと言う。

梶原景季は怒り、「生食」をどのようにして手に入れたのか、殺気だって返答を迫った。佐々木高綱は咄嗟に、「この度の戦いにては、宇治と瀬田の橋は外されてしまっている。乗って河を渡る馬も持たないので、生食を賜らんと思ったが、貴殿が所望したのに断られたと聞いた。貴殿に許されなかったものを、自分に賜るはずもないので、後日勘当あらばあれと、昨夜盗み出して来たのよ」と答えた。梶原景季はこれを聞いて怒りを納めた。

この「生食」は、黒栗毛で太くて逞しいが、馬にも人にも噛みつく荒々しい馬で、それゆえに「生食」と名付けられていた。また、梶原の賜った馬も、極めて逞しく、墨のように黒く、「磨墨」と名付けられ、いずれも劣らぬ名馬だった。

源義経が率いる2万5千余騎は宇治橋の袂に押し寄せた。木曽軍は都への侵攻を妨げんと、瀬田も宇治も橋板を外して、川底には大縄を張り逆茂木を立て対峙した。頃は1月、雪が解け出し宇治川の水は増水して流れも速く、白波が逆巻いていた。夜がほのぼのと明ければ、河霧深く立ち込めて、馬も鎧も定かには見えぬほどに川幅は広かった。

畠山庄司郎重忠の勢5百余騎が轡を並べて、まさに渡ろうとした時、梶原景季と佐々木高綱が、互いに、後先になりながら現れた。梶原が6間余り前へ踏み出し、これを見た佐々木は、「梶原殿、この河は西国一の大河、馬の腹帯が緩んで見えたり。締め給えや」と叫んだ。梶原は、「さもあらん」と歩みを止め、腹帯を解いて締め直した。

佐々木高綱はその間に、つっと馳せ抜けて、河へさっと打ち入れた。「謀られたか」と梶原、遅れてはならじと佐々木高綱の後に続く。佐々木高綱は太刀を抜き、川中に張られ馬の足に掛かる縄を斬りつつ、真一文字に進んだ。さすがは「生食」、白波騒ぐ宇治川を一文字に突っ切って、遂には対岸へ打ち上げた。梶原景季の「摺墨」は、川中から筋交いに押し流され、川下に打ち上げた。

佐々木高綱は、鐙(あぶみ)に踏ん張り、「近江の住人、佐々木四郎高綱、宇治川の先陣なり」と、声高らかに、名乗りを挙げた。この二人に続き、畠山5百余騎もうち入れた。宇治橋を堅めていた木曽勢は、しばしは支えていたが、東国の軍勢が皆渡って攻めかかり、終には力及ばず落ちて行った。

この名馬「池月」の伝承は、岩手、島根、東京、福岡など全国各地にあるが、この地の伝承では、名馬「池月」はこの地宮城県玉造郡の「池月」で生れ、摺墨(磨墨)号は宮城県鶯沢の駒場で生れたと言われており、金売吉次によって鎌倉の源頼朝へ贈られたと伝えられる。

また、三本木の地の伝承では、奥州合戦の折にこの地に来た源頼朝により見出されたとも伝えられる。奥州合戦の折に見出されたとの伝承では、それが史実だとすれば、宇治川の戦いの「池月」とは、代が異なる。

三本木の地の伝承は以下のようなものである。

昔、 暴風雨のため一夜にして鳴瀬川が増水し、里に甚大な水害があった。この水害の中、水面から頭を出して、鼻竿が八本もついたまま泳いでいた馬がいた。不憫に思った里人たちが、鼻竿をとってやった。しかしこの馬は、里人たちが助けたにもかかわらず、里の者には誰一人としてなつかなかった。

この馬は、隣の岩出山の池月沼付近で育ったようだ。この馬は池月沼を泳ぎ回り、その周辺を走り回り、時には暴れ、周辺に被害をもたらしたりもし、池月の里人らからは、「何の役にも立たない馬だ!」と嫌われていた。

このことを知った三本木の里人たちは、「この馬は暴れ馬ではあるが、山や川などでも平地と同じように動くことができるし、川を泳ぐ姿も、じつに巧みで華麗だ。役に立たないどころか、名馬の中の名馬だぞ」と噂し、この馬を、「池月」と呼んで、この里の長者の家で大切に育てるようになった。池月は、この里の者には誰一人としてなつかなかった。しかし里人たちは、なんとなく、神様から授かった馬のように思えて、大切に世話をしていた。

ちょうどこのころ、源頼朝が平泉に向かう途中、この里の屋敷に宿泊したことがあった。このとき、この里に名馬がいるという噂を聞き、家来に長者の家を訪ねさせて、池月を千貫文で譲渡するように頼んだ。長者は、気の荒い池月の気性を思い、池月が斬り捨てられるのではないかと心配していたが、千貫文出すほど欲しいのなら、殺すこともないだろうと手放すことにした。

池月が頼朝の前に連れてこられると、喜んだ頼朝は、すぐに、池月に乗ろうとして、馬の背に手をかけた。すると、誰であれ、触れられることをきらった池月が、前膝を折って頼朝を 歓迎した。これを聞いた里人たちは驚き、「池月は、頼朝が来ることを予感し待っていたのだ。」と噂しあった。

その後、長者の屋敷があった地を、「千貫森」と呼ぶようになったという。