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慶長3年(1598)豊臣秀吉の死後、石田三成と徳川家康の対立が深まると、上杉景勝は、会津諸城の改修を始めた。若松城では、城下を拡張する事が出来ない事や、若松城の近くには小田山があり、大筒を用いた近世の戦いには不向きと考えたと思われる。景勝が考えたのが、会津若松城の南西6kmの向羽黒山城の改修と、神指城の築城だった。

会津盆地の南端部に向羽黒山を中心にした山塊があるが、この山塊全体が向羽黒山城である。この山にはもともと地元の土豪が築いた城があったが、本格的な城を築いたのは葦名盛氏であり、築城は永禄4年(1561)から8年間を費やしたという。葦名氏滅亡後も伊達氏、蒲生氏、上杉氏が改修を行っている。

向羽黒山は、比高が約190mの独立した山塊で、盆地内が一望のもとに見渡せる。東に阿賀川が流れ絶壁状で、こちらからの攻撃はほぼ不可能である。歴代のこの地の支配者は、この城を重視したようだ。特に、徳川家康と対立した上杉氏は、会津入封後、会津若松城はほとんど手を付けずこの城を徹底的に整備したという。徳川が会津盆地に攻め込んだ場合、上杉景勝はこの城を最大の防衛拠点として考えたものと思われる。

山全てが城という巨城であり、曲輪は100以上あるといわれる。本郭の他に、二の郭、三の郭、羽黒郭などがあるが、これらは本郭の周囲に存在する訳ではなく、ほぼ独立した城砦であり、城砦群の集合体が向羽黒山城である。

城は標高408mの向羽黒山の山頂を中心に、東西約1.4㎞、南北約1.5㎞の範囲が城域である。総面積は約50.5haあり、会津若松城の約2倍ほどである。本郭のある向羽黒山の山頂付近を「実城」といい、この部分だけでも一つの独立した山城を形成している。

道路を登って行くと北側に羽黒山(標高344m)のピークがあり、山頂に羽黒神社があり、ここが羽黒郭である。道を南に進むと鞍部がある。この北側斜面に盛氏の屋敷があったといい曲輪群があった。そこを過ぎると三の郭であるが、公園化され地形は大分改変されたようだ。

ここを過ぎると二の郭であるが、その間に幅約30m、深さ約15mの大堀切と竪堀があるという。二の郭も単なる郭ではなく「中城」というべき独立した城である。頂上の二の郭を中心に北側、西側に郭群が配されている。それぞれの曲輪が前面に土塁を持ち、横堀、竪堀が複雑に配置され、石垣も多用されているという。さらに進むと弁天神社がある。弁天神社は東端の絶壁上にあり、標高は320mでここから東側の眺望は抜群で、ここには物見台が置かれたかもしれない。登りきったところは切通しになっており、かつての実城と中城間の大堀切だという。

さらに登ると二の郭になり東西約60m、南北約40mの平場になる。この郭も標高350mのこの山塊の一つのピーク上にあり、ここには葦名盛氏の居館が置かれたという。

実城一の郭には一旦堀切まで下り、さらに南に高度で70m登る。西側の登り口が土塁に囲まれた虎口状になっており、斜面には竪土塁、竪堀、曲輪が複雑に配されている。山頂部は2つに分かれ、その鞍部が内桝形となっている。この北側が本郭の東郭であるが、巨石が数個あり石庭だというが狭く、物見台のような感じである。

南にさらに上ると、二段の土塁を持つ腰曲輪を経て本郭跡に到る。本郭跡は未整備で南北約40m、東西約25mの平場になっている。南側に幅約15m、深さ約7mの大堀切があり、さらに南に尾根伝いに行くと郭があり、その南側に幅20mほどの堀切があり、竪堀となって山腹まで下っているという。

その他、この山塊の幾つかのピークを中心に多数の郭が配され、それぞれに空掘、土塁などがあったようだが、城跡としては未整備で、その全容をつかむ事は困難である。また上杉氏により石垣なども随所に築かれたようだが、それらは草木の中に埋もれ見ることはできない。

この地の歴代の支配者が、この城を決戦の城として整備改修したが、上杉景勝は関ヶ原本戦が西軍の敗北で決したことにより景勝は徳川に降り、この城は一度も戦うこと無しに破却させられた。

さらに前田利家が死去した後は、徳川家康の野望は公然としたものになっていった。石田三成と近い上杉景勝、直江兼続は、徳川との戦を想定し9月頃から本格的にその準備に入った。慶長5年(1600)2月、景勝は福島県中通り地方の諸城普請を春から夏までの間に済ませるように指示した。この時期にはすでに向羽黒山城の改修は終了しており、若松城にかわる新城の築城を命じた。

石田三成や上杉景勝の戦略構想では、以前より中央の大坂城、西の広島城、東の神指城との計画があったと考えられる。3月、家臣団や常陸の佐竹義宣の家臣300人の応援を受け、築城を開始した。

4月、家康は兼続に対し、上洛の催促と諸城の改修理由について質問状を出す。このときの返書が有名な直江状である。家康は兼続の返書に激怒し会津進攻を決意し、5月、家康は諸大名に会津征伐を命じた。同月、会津では神指城の二ノ丸の工事を、領内の人夫約12万人を動員し開始した。6月には神指城の本丸と二ノ丸の土塁と石垣、水堀と門が完成する。

神指城は、その平面図からすると、若松城の2倍、約55haの面積を有し、毛利輝元の広島城に近い形をした本格的な近世城郭を目指していたようだ。総石垣の城郭であったようで、石は東山の天寧から運んだ。

石垣は、本丸部が東西100歩、南北170歩、塁の幅が6丈(役18m)、高さ3丈5尺(10.5m)あり、東、西、北に門が開き、四方を石垣で囲み、23歩の濠が廻っていた。二の丸部分は、東西260歩、南北290歩、塁の幅9丈(27m)、高さ2丈5尺(7.5m)、四方に門が開き20歩の濠が廻っていた。現在残る土塁は、本丸が、北側で高さ7.5m、幅は37m、二ノ丸は高瀬の大木部分で、高さ5.2m、幅43mある。

しかし同月、景勝は神指城の築城を中止し、家康に対する臨戦態勢を命じた。特に白河、栃木藤原町の横川、福島に家臣を派遣し、城の改修を指示している。

関ヶ原の戦いでは西軍が敗退したため、神指城は完成を見ることなく破却され、上杉景勝は会津百二十万石から米沢三十万石に減移封された。その後、破却された神指城の石垣は、若松城修築に使用されたといわれている。

その後、景勝は白河口からの城塁修築を急がせた。これらの防塁跡や陣跡は、現在、白河市石阿弥陀地区、長沼町の勢至堂峠堂谷坂、天栄村の馬入峠、栃木県藤原町の横川、会津若松市の安藤峠、伊達郡桑折町の西山城に土塁や堀跡が残っている。