スポンサーリンク

慶長3年(1598)8月、豊臣秀吉が伏見城で死去すると、政権内部での対立が表面化していった。秀吉の死の直後、徳川家康と伊達政宗ら諸大名が、秀吉の遺言に違反する私的婚姻を計画していたことが発覚し大老前田利家や豊臣奉行衆らによる家康追及の動きが起こった。

しかし同年閏3月、利家が死去すると、かねてから石田三成と対立関係にあった加藤清正・福島正則ら七将が、三成の大坂屋敷を襲撃。家康は仲裁に乗り出し、三成は五奉行から退隠、佐和山城に蟄居となった。

この時期、石田三成と上杉景勝との間では、恐らく家康派との間で戦いになることは避けられないとの思いがあったと思われ、東西から徳川勢を挟み込む大戦略が練られたものと考えられ、会津では神指城の築城など、軍事力の増強を計りはじめた。

上杉景勝らの戦略は、西の石田三成らの挙兵に呼応し、上杉が東に挙兵し、状況によっては江戸に兵を進めるというようなもので、奥羽の地では、背後の最上氏を屈服させ、佐竹氏、相馬氏、岩城氏を伊達勢の押さえとし、上杉勢は領内諸城に兵を配置し、徳川勢を領内に引き込み、各個撃破していくようなものだったと思われる。

白河革籠原の防塁は、徳川勢が北上してきた場合、最初に上杉勢が徳川の軍を迎え撃つために築いたものとされる。

中世の土塁の一部とも考えられるが、会津の向羽黒山城と同様、上杉氏の土塁の特徴である二重土塁である点や、堀幅などについても、上杉氏が築いたものと合致し、中世の館跡を改修 したものとも考えられる。江戸時代の軍記物では、数kmにわたり築かれた長塁と記されているが、現在は、約370m残っているのが見られる。

この長塁は平地に築かれており、一帯は湿地帯だったと思われる。上杉勢は北側の丘陵地帯に柵をまわし陣を置き、徳川軍をこの地に誘い込み、この長大な防塁と湿地で足止めし、上杉勢の主力は、西の那須や甲子方面から皮籠原を側面攻撃をする。また東側からは、棚倉町の南館に陣を敷く佐竹勢が攻撃する構想だったと考えられる。

上杉景勝や直江兼続が考えていたこの地での戦いは、徳川勢に痛打を与える野戦であり、篭城戦を戦うような城ではなく、この地が破られた場合は、最終的には向羽黒山城での篭城戦を考えていたものと思われる。

上杉勢の本陣は、この地からおよそ20km北側の長沼城におかれるはずだったと考えられ、実際に徳川勢が小山まで北上してきたときには、上杉景勝率いる本隊が長沼城に入り迎撃態勢をとったとされる。

長沼城は、長沼小学校北側にある南北に連なる丘陵を堀切にて分断して独立丘とした日高見山に築かれている。日高見山山頂部に本郭を、西側に二の郭を配し、その周りに帯郭を設け、更に東西にそれぞれ三の郭を配した輪郭式の縄張りとなっている。戦国末期には山ろくにも城域が拡大し、裾野を含めて約400m四方となっており、裾野の最外郭には水堀があった。本郭のある山頂の標高は367m、比高は50mほどである。南北そして東側は急勾配の斜面で守られている。

長沼小学校裏に駐車場が若干高くなっており、この地にも郭が置かれ、小学校側が堀になっており、坂下門があり、東側に大手門に当たる城下門があったと云う。

佐竹氏は、家中は徳川方につくか石田方につくか家中は混乱していたようだが、石田三成や上杉景勝と懇意であった当主の義宣は、徳川勢が北上を始めると、棚倉の赤館城に兵を進めた

赤館城は、白河結城氏、会津葦名氏、常陸の佐竹氏がしのぎを削った城で、その後は南奥制覇を目指す伊達政宗と対峙した城で、佐竹氏の南奥の拠点城だ。佐竹義宣はこの赤館まで軍を進め、徳川方の会津侵攻に備えた。