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山形県鶴岡市の東端の下山添の地に、「首無し地蔵」と呼ばれる地蔵があり、この地は,、山形の最上義光の長子の最上義康が暗殺された地である。最上義康は、義光とともに、あるいは名代として各地を転戦し、勇猛でかつ思慮深い名将の資質を持っていたようだ。

天正14年(1586)5月、この時期最上氏は上杉氏を背景とした庄内をめぐり大宝寺氏と争っていた。これを機として横手の小野寺義道は、旧領回復のため、最上領侵攻の陣触を出した。小野寺義道は総勢8千の兵を有屋峠を超えて最上領に攻めこんだ。これに対し最上義光は、兵1万を出し金山城を拠点としこれに対峙した。

緒戦は、挑発に乗った最上勢が小野寺勢の待ち構える難路に踏み込み、弓や鉄砲で打ち掛けられ、大きな損害を受けた。さらに、庄内方面での戦いが苦戦という知らせがあり、最上義光は兵の一部を割いて庄内救援に向かった。

有屋峠での小野寺勢との戦いは、初陣の義康が総大将となり、楯岡満茂と鮭延秀綱がこれを補佐し小野寺勢に向かった。義康が率いる最上勢は奮起し、小野寺勢と激突した。その中でも鮭延秀綱は鉄砲隊100人を選び、大木の上から小野寺勢を狙い撃ちにし、小野寺勢に大打撃を与えた。楯岡満茂と鮭延秀綱の働きもあり、激戦の末、小野寺勢を撃退した。その後も、小野寺氏はたびたび侵攻を試みたが、ついに所領奪還は果たせなかった。

信康の同母妹に駒姫がいた。年も近いこともあり、信康とは仲の良い兄妹だったようだ。駒姫は、長じてのその容姿は「双なき美人なりし」と伝えられている。天正19年(1591)、関白豊臣秀次が陸奥の九戸政実討伐の帰路に山形へ立ち寄った際にこれを見初め、側室にすることを望んだ。しかし義光は、まだ童女であることを理由に断ったが、その後秀次から再三の要求があり、やむを得ず文禄4年(1595)、駒姫を京都へ上らせることになった。

しかし、京都に上ってすぐに、秀次へのお目見えもしない内に秀次事件が起き、駒姫も含め、秀次の妻妾子供らは全て斬罪に処せられることになった。父最上義光も謀反に連座した嫌疑をかけられ軟禁され、秀次は高野山で切腹させられた。

義康は、駒姫の助命と父義光の無罪を主張し、徳川家康や石田三成に赦免を願い、駆けまわり、祈祷を行い父を感激させた。しかし義光の嫌疑は晴れたが、妹駒姫を救うことはできず、母大崎夫人は娘の後を追い亡くなった。

父義光の歎きも深く、これ以降豊臣には距離を置き、徳川家康へ接近していく。慶長元年(1596)の伏見の大地震の際、加藤清正は真っ先に秀吉の所に駆けつけ、他の大名達も、我先にと秀吉の見舞いに訪れたが、義光だけは秀吉を差し置き、家康の所に駆け付け見舞っている。

その後の関ケ原の戦いの折の、出羽での上杉勢との乾坤一擲の戦いは、それまでの庄内を巡る上杉氏との争いや、小野寺氏との争いに決着をつけ、最上氏の最大版図を実現した。

このような中での義康の活躍により、最上家の多くの重臣たちは最上義光の後継として期待し。異を唱える者はいなかったようだ。父義光にしても義康の成長に期待し、後継とすることに異論はなかったろう。

しかしながら、義康は、一時、豊臣秀吉に小姓として上がったことがあり、それに対して、次男の最上家親は早くから徳川秀忠に近侍して江戸にあった。このため、最上の重臣は、心情的には出羽統一の時代からともに戦った義康に近く、しかし最上の家督相続への徳川の意向は次男の家親にあったと言うことは容易に想像できる。

この家督相続を巡って、義康は鶴岡城で、父義光といさかいを起こし、義康は義光から高野山に入ることを命じられる。義康はそれに従い重臣浦山源左衛門らと高野山に向ったとされるが、その途中、尾浦城主の下吉忠家中の者20余名に奇襲され、源左衛門は即死、義康も重傷を負った。

討っ手たちは、口々に「上意じゃ~」と叫んでいたようで、義康は義光への憤激の言葉を残して自刃し、首をとられたと言う。義康29歳だったと言う。

この最上修理太夫義康の最期の地に、村人達はその死を哀れみ塚を立て、家臣と義康のために2体の地蔵を安置した。しかし石地蔵の首がすぐに落ちてしまい、何回修復しても首が落ちてしまったと言う。そのためこの石地蔵を誰言うとも無く、首なし地蔵と言うようになった。

最上義光は、この事件の真相究明を家臣の斎藤光則に命じ、この事件に関わり出奔し前田家に逃れていた里見父子を連れ帰り、下吉忠のもとに預けた。慶長19年(1614)、義光はその死の年、里見父子を丸岡で切腹させた。これは義光の遺言だったと言う。

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この事件は、表向きは、相続をめぐって、最上義光と義康が衝突し、義光の命により誅されたとされているが果たしてそうだろうか。この最上藩改易の遠因ともいえる事件は、その後、最上藩が消滅したこともあり様々な疑問がそのままになっている。

ここではこの最上義康暗殺から、最上藩改易までを小説「最上擾乱」として少しづつ取り上げていこうと思う。