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秋田県横手市には、徳川家康の懐刀として活躍した本多正純の墓がある。
本多正純は、永禄8年(1565)、徳川家康の家臣の本多正信の嫡男として生まれた。父と同じく智謀に長け、家康の信任を得て重用されるようになった。慶長8年(1603)、家康が征夷大将軍になると絶大な権力を得たが、家康が将軍職を秀忠に譲ると、江戸の秀忠を補佐する大久保忠隣との間に確執が生じた。

慶長17年(1612)、正純の家臣の岡本大八が、肥前の有馬晴信から多額の賄賂をせしめたいわゆる岡本大八事件が起き、大八が切支丹であったことから徳川幕府の禁教政策ともあいまり、本多父子の力は一時衰退した。

しかし翌年の慶長18年に、正信、正純父子は、大久保忠隣に近い金山奉行で、松平忠輝の家老だった大久保長安が横領していると申し立て、さらに忠輝の岳父が伊達政宗であり、長安と政宗は親しい関係にあったことから、長安が政宗の力を背景にして謀反を企んでいたと申し立てた。これによりすでに没していた大久保長安の遺体は掘り出され磔にかけられ、一族は粛清された。

さらに大久保長安事件で力を失った大久保忠隣を、本多父子は、忠隣が家康の豊臣氏討伐に反対していたことで、豊臣氏家老の片桐且元との関係などを申し立てて、忠隣は遂に改易され近江へ追放された。

慶長19年(1614)大坂冬の陣の時の徳川氏と豊臣氏の講和交渉で、大坂城内堀埋め立ての策を家康に進言したのは、正純であったと言われ、智謀の才により大阪の陣を勝利に導いた。

元和2年(1616)、徳川家康と父の正信が相次いで没した後は、江戸に移り第二代将軍徳川秀忠の側近となり、年寄にまで列せられ、元和5年(1619)には下野小山藩五万三千石から宇都宮藩十五万五千石に加増を受けた。

しかし、謀略によりのし上がり、権勢を欲しいままにしていた正純には敵も多く、やがて秀忠や秀忠側近から疎まれるようになる。幕僚の世代交代が進み、秀忠側近の土井利勝らが台頭してきたことで、その影響力、政治力は次第に薄弱になっていった。

元和8年(1622)、出羽山形の最上氏が改易された際、正純が上使として山形城受取りに出向いている最中に、鉄砲の秘密製造や宇都宮城の本丸石垣の無断修理、さらには秀忠暗殺を画策したとされる宇都宮城釣天井事件などを理由に11か条の罪状嫌疑を秀忠から突きつけられ、所領を召し上げられ、出羽の由利郡に五万五千石を与えるという命を受けた。

しかし正純は、謀反の嫌疑に対して身に覚えがないとして五万五千石の命を固辞した。秀忠はこれに激怒し、本多家は改易され、身柄は佐竹義宣に預けられ、出羽国横手に流罪となった。この正純の失脚により、家康時代にその側近を固めた一派は完全に排斥され、土井利勝ら秀忠側近が影響力を一層強めることになった。

この顛末は、秀忠側近の土井利勝らの策謀であったとも伝えられ、また、秀忠の姉の亀姫が、秀忠に正純の非を直訴したためだともされる。

亀姫は正純が宇都宮に栄転したのに伴い格下の下総古河に転封を命じられた奥平忠昌の祖母であり、またその娘は、本多父子の陰謀で改易された大久保忠隣の子の大久保忠常の正室であり、正純に憎悪を抱いていたと考えられる。

さらに、改易された山形最上藩の領土収公に赴く途中で改易を命じられるという顛末は、キリシタン鎮圧に赴く途中で改易を申し渡された大久保忠隣の時と類似しており、忠隣に関連する人物らによる報復とも考えられる。忠隣の親戚に当たる大久保彦左衛門忠教は、忠隣を陥れた因果を受けたと快哉を叫んだという。

その後正純は千石の捨扶持を与えられ、横手で幽閉生活を送り、寛永14年(1637)3月死去した。享年73歳だった。

日だまりを 恋しと思う うめもどき 日陰の赤を 見る人もなく

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正純謀反の証拠は何もなく、また秀忠暗殺を画策したとされる宇都宮城の釣天井などは、秀忠も不審点がないことを、元和8年(1622)4月行なわせた調査で確認している。

本多正純は、家康時代からその知謀の才で徳川体制を築き上げて来たが、その謀略ゆえに多くの者から恨みも買っていた。また秀忠や土井利勝らの若い幕閣は、家康の代から影響力を大きく持ち、秀忠らの意に沿わない正純を疎ましく思っていたようだ。それらが、亀姫の訴えを機に、一気に本多正純の追い落としとなったのだろう。

しかし、そのなかの「釣り天井による徳川秀忠暗殺」疑惑は衝撃的であり、その後も宇都宮周辺では、民話化し庶民に広がり語り継がれたようだ。

・江戸時代の初め頃、宇都宮の近在の村に、与四郎という気立てが良く、腕のいい大工がいた。庄屋に気に入られた与四郎は、その娘・お早との結婚が決まった。ある日のこと、与四郎は庄屋から「日光東照宮に参る将軍様がお泊まりになる部屋を造るのにお前が選ばれた」と知らされ、宇都宮城に上った。

城には下野国中から選ばれた30人ほどの大工が集められ、連日連夜豪華な食事が振る舞われた。しかし城外に出ることは固く禁じられ、与四郎はお早に会いたくて仕方がなかった。

将軍様の部屋は1か月もせぬうちに完成したが、集まった大工の中から特に腕のいい10人が選抜され、将軍様の湯殿を造ることになった。与四郎はそのうちの1人に選ばれたが、お早に会えないことがとても辛かった。

ある時、与四郎は大工仲間の留吉から、お殿様は湯殿の上に吊り天井を仕掛け、将軍様を亡き者にしようとしているという話を聞かされる。これを聞いた与四郎は夜中に城を抜け出し、お早のいる庄屋の家へ駆け込んだ。再会を喜び合う与四郎とお早は夜が明けるまで話し続け、朝を告げる鳥の声を聞くと、お早に吊り天井の図面を託し、城へ駆け戻った。

城に戻ると与四郎はその場で首をはねられてしまい、湯殿の完成を待って、残った大工も1人残らず命を奪われた。その噂は城下を駆け巡り、お早の耳にも届いた。お早は悲嘆に暮れ、先立つ不孝をつづった手紙と吊り天井の図面を残して井戸に身投げした。変わり果てた娘の姿を見た庄屋は泣き明かし、娘の残した手紙と図面を握り締め、いちもくさんに駆け出した。吊り天井のことを将軍様に伝えるためである。雀宮宿で将軍様ご一行に出会った庄屋は書状を差し出し、急を告げた。

吊り天井のことを知った将軍様ご一行は江戸へ引き返し、後ほど宇都宮城を取り調べた。すると、吊り天井と大工の遺体が見つかり、殿様は城を取り上げられて、秋田の由利に押し込められたと伝えられるのだと。