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安倍氏は康平5年(1062)に前九年の役で滅亡した。この前九年の役で、国府側勝利の原動力となったのが、清原氏の清原武則である。清原氏の当主は、清原光頼だったが、前九年の役ののちには、光頼から、戦いに実際に参加した弟の武則の系統に遷り、清原氏の流れは、武則を経て武則の息子の武貞、さらにその嫡子の真衡へと継承されていった。

武貞は前九年の役が終わった後、安倍氏一門の有力豪族であり戦後処刑された藤原経清の妻で、安倍頼時の娘を妻としていた。彼女には、経清との間に生まれた息子がおり、武貞の養子となり、清原清衡を名乗った。さらにその後、武貞と彼女の間に、清原氏と安倍氏の惣領家の血を引いた家衡が生まれた。

武貞の死後、清原氏を嗣いだのは真衡だったが、真衡には嫡男が生まれなかったので、真衡は海道平氏の一門、成衡を養子に迎え、その成衡に源氏棟梁である源頼義の娘を嫁がせることになった。これは、清原氏は、安倍氏と同様、俘囚の長として、中央政権とは異質なものとの扱いを受けてきており、これを天皇家からの直接の流れを持つ平氏と源氏の血を取り込むことで清原氏の家格を高めようとしたものと考えられている。

しかし、こうした夫婦養子の政略結婚政策は、清原氏の血脈を受け継いできた一族は快く受け入れられるはずもなく、叔父吉彦秀武や弟家衡、清衡の離反を招いた。このような中で永保3年(1083)後三年の役が始まることになる。

成衡の婚礼のとき、祝賀のために参上した一族筆頭の吉彦秀武が、祝いの品である砂金を頭上に掲げて控えていたにもかかわらず、真衡は、それを無視して長時間待たせた。屈辱を受けた秀武は大いに怒り、砂金をぶちまけて無断で帰ってしまった。

これに怒った真衡は直ちに秀武討伐の軍を起こし、秀武は真衡に不満を持っていた家衡と義弟の清衡に挙兵を促し、家衡・清衡は兵を挙げて真衡の館に迫ったが、それを知った真衡は軍を家衡・清衡に向け、家衡・清衡は一旦兵を退いた。

その年の秋に、新たな陸奥守として成衡の妻の兄となる源義家が下ってくると、真衡は義家に対して三日厨と呼ばれる三日間に渡る歓待を国府で行った後、秀武を討つために再び出羽に出陣した。家衡と清衡は真衡の不在を好機と見て再び真衡の本拠地を攻撃したが、留守を守る真衡方が奮戦し、さらに義家が真衡側に加勢したため、家衡・清衡は惨敗を喫して義家に降伏する。だが、真衡自身は出羽への行軍の途中に病で急死した。

この真衡の死には、病死とする他に暗殺説などもあり、NHK大河ドラマ「炎立つ」では源義家による暗殺説を取っているが、結果として、最も利益を得たものとしての、清原清衡(藤原清衡)の手によるのではないかと考える。

真衡の死後、義家は真衡の所領であった奥六郡を3郡ずつ清衡と家衡に分与した。ところが家衡はこの裁定を不満とし、応徳3年(1086)に清衡の館を攻撃した。清衡の妻子一族はすべて殺されるも清衡自身は生き延び、義家の助力を得て家衡に対抗した。清衡と義家は沼柵(秋田県横手市雄物川町沼館)に籠もった家衡を攻撃したが、季節は冬であり、充分な攻城戦の用意が無かった清衡・義家連合軍は敗れた。