スポンサーリンク

戦国時代の「傾奇者」として名高い前田慶次の現在流布している人物像は、江戸時代に盛んに読まれた「武辺咄聞書」「常山紀談」などの武辺咄に描かれた逸話群からのものであり、それを原作とした漫画「花の慶次」によって生み出されたものと言ってもよい。ここではその前田慶次の実像に迫ってみる。

前田慶次の「慶次」という名前は、本名ではなく、複数伝えられている通称のひとつでしかない。また本名も、前田利益とされているが、それも定まってはおらず、生誕年も、天文2年(1533)とする説があるがこれも定まってはいない。

加賀百万石の祖・前田利家の父の前田利久は、永禄3年(1560)に、前田家の家督を継ぎ、現在の名古屋の荒子城の城主となった。利久は滝川家から妻を迎え入れたが、家督を継ぐべき男子は生まれず、弟の娘を自身の養女とし、その婿として、妻の弟(異説あり)にあたる慶次を養子として迎えた。

しかし病弱だった利久は、永禄12年(1569)、主君織田信長の意向もあり、前田家の家督は利久の弟の前田利家が継ぐことになった。隠居を余儀なくされた利久は、慶次と共に荒子城を出ることになった。その後、利久と慶次は家臣として前田利家に計7千石の知行を与えられ仕えた。

天正12年(1584)、小牧・長久手の戦いが勃発すると、前田慶次は徳川方の佐々成政の攻撃を受けた石川県宝達志水町の末森城の救援に向かい、前田利家と共に戦い、佐々成政の猛攻を、その巧みな戦術で阻止した。また慶次は、天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原の役にも利家に付き従い、豊臣方の北陸道軍として出陣した。

しかし慶次は、その前田家を出奔してしまう。前田利家は、律儀な性格だったが、慶次は知勇の将でありながら、人を食ったいたずら好きで、利家はその才を惜しみ、慶次を諭すことも多かったようだ。

あるとき慶次は、神妙な面持ちで利家に「茶を差し上げたい」と自分の屋敷に招待した。利家は、「やっと改心したか」と喜んで、慶次の屋敷に出かけた。慶次は水風呂に冷水をたっぷり汲み、「本日は冷えるので、湯加減よろしい風呂を用意しておきました。どうぞお入り下さい」という。利家は喜んで風呂に飛び込むと、それは冷水だった。怒った利家は「その悪戯者を逃がすな!」と叫んだが、慶次は名馬・松風に乗って、そのまま行方も知れず駆け去ってしまった後だった。

この逸話は、後世の創作と思われるが、慶次のいたずら好きは、他人には無礼なものと受け取られることもあり、律儀な前田利家は、そんな前田慶次を諭そうと何度も注意していたようだ。一説には、前田慶次は、このような前田利家の「おせっかい」が面倒であったために出奔したと言われている。

この出奔の理由は様々に取り上げられているが、前田利家自身も知勇の武将であり、前田家を加賀百万石の大名にまで押し上げ、豊臣政権下においては大名の連絡役を担当するなど、多くの武将に慕われてもいた。利家と慶次は、ある意味では非常に似通っているように思え、異なるのは、「家」や「家臣」を背負っている利家と、その重荷がない慶次との違いかもしれない。この時期、慶次には妻子があったが、妻子一同は随行しなかった。

戦国期から太平の世の中に移りつつある時代、利家は時代の権力に傾斜せざるを得なかった。「家」や「家臣」の重荷がない慶次にとっては、そうせざるを得ない利家の生き方を理解はしても、己の美意識には反するものとの思いがあり、それが利家のもとを去った理由ではと考える。

出奔した前田慶次は、京都に滞在し、剃髪をして「穀蔵院飄戸斎」(こくぞういんひょっとこさい)などと号した。あるとき、慶次は、愛馬の松風を贅沢に飾り立て、市中を練り歩き街中の評判になった。
京都では気軽な浪人生活を送りながら、九条稙通、古田織部、細川幽斎ら多数の文人と交流していた。

あるとき、豊臣秀吉が諸国の大名を招待し、盛大な宴を開いた。慶次は、その宴の席に紛れ込み、宴が佳境を迎えた頃、下座から猿のお面を付け、手ぬぐいで頬被りをして、面白おかしく踊った。慶次は踊りながら、順番に大名達の膝の上に乗り、無礼者と斬り殺されてもおかしくない状況だったが、あまりに慶次の踊りが滑稽だったためか、怒る者はいなかった。

しかし、このとき、慶次が膝の上に座れなかった武将がひとりおり、その武将こそ、上杉景勝だったという。のちに慶次は、「上杉景勝だけは威厳があり、乗ってはいけない雰囲気があった」と、このときのことを語っていたという。

慶次は、噂を聞き付けた豊臣秀吉に呼ばれて面会した際、「傾奇御免状」を与えられ、「これからは傾奇者として好きなように生きよ」との許可を得たと伝えられている。

慶次は、慶長3年(1598)頃、越後から陸奥会津に移封する上杉景勝に、浪人集団「組外衆」(くみそとしゅう)のトップとして1,000石で仕えるようになった。これは、慶次が上杉景勝の「信義」を重んじる思想や人柄に惹かれ、また京都において、上杉家の重臣の直江兼続との親交が深かったことも、その理由であったと考えられる。

その後、直江兼続の配下に入った慶次は、慶長5年(1600)の「関ヶ原の戦い」と連動して勃発した「慶長出羽合戦」に西軍に属する上杉軍の一員として参戦。そして直江兼続らと共に、長谷堂城の戦いなどで武勲を挙げた。

しかし、関ヶ原の戦いの本戦では西軍が敗れ、勢いづいた最上勢は一斉に上杉勢の追撃を開始した。このとき慶次は、水原親憲とともに退却する上杉軍の殿を務めたが、最上勢は、富神山麓で上杉勢に追いつき、激烈な戦闘が行われた。執拗に食らいつく最上勢に対して、朱塗りの長槍を振りかざした慶次らが突っ込みこれをなぎ倒し、そこに水原の鉄砲隊200が撃ちかけた。最上側の記録では、最上勢600余、上杉勢1500余が討ち死にというまれに見る激戦だった。最上義光自身も、ここで兜に銃弾を受けて、命に別状はなかったものの兜の篠垂が吹き飛ばされたという。

関ヶ原の戦いの後、上杉景勝は会津120万石から米沢30万石に減封、上杉家家臣が次々と離れていく中、慶次は「私の主は上杉景勝ただ一人だ」として、他藩からの高禄の申し出をも断ったと伝えられる。また慶次は、「西軍に付いた大名は、東軍に降伏すると人質を渡し、自分だけ助かろうとする奴らばかりだ」と言い放ち、「しかし上杉景勝は、関ヶ原で味方が敗北しても隙を見せず、ペコペコと頭を下げることはなかった。最後まで戦い続けた立派な大将だ」と、主君・上杉景勝を絶賛したという。

慶次は、上杉景勝の米沢移封にしたがい米沢に移った。米沢では堂森の地に庵を結び、わずかな禄のみを受け取りこの地に隠棲した。隠棲後は直江兼続とともに「史記」に注釈を入れたり、和歌や連歌を詠むなど自適の生活を送ったと伝えられる。

慶長17年(1612)、この堂森の地で死去。北寺町の一花院に葬られたが、現在は廃寺となり墓は不明である。近年、この堂森の善光寺が供養塔を建て供養している。

前田慶次には正虎という嫡子がいたが、慶次が前田家を出奔した際には、妻子は随行させず、正虎は、義理の祖父前田利久の跡を継ぎ、前田利家、利長、利常三代に仕えた。加賀藩士としては書家の活動が見られ、『前田家之記』を著し、藩の故事を後世に伝えたと云う。子はなく、慶次の直系は消滅した。