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順徳天皇は、承元4年(1210)、後鳥羽上皇の強い意向により、土御門天皇の譲位を受けて践祚し、14歳で即位したが、それまでと同様に、後鳥羽上皇による院政が継続される。

後鳥羽上皇は、源頼朝亡き後の政治を朝廷に戻そうとしており、順徳天皇は、父上皇以上に、鎌倉幕府打倒に積極的だった。順徳天皇は討幕計画に備え、承久3年(1221)4月に第三皇子の懐成親王(仲恭天皇)に譲位して上皇となった。同年5月、父上皇の、執権北条義時追討の院宣を受けて承久の乱を起こしたが、倒幕は失敗に終わった。

戦後の7月、首謀者の後鳥羽上皇は隠岐島、順徳上皇は佐渡島にそれぞれ配流され、順徳上皇の子の仲恭天皇は廃され、後堀河天皇が即位した。

この時期、鎌倉の武家政治は確固としたものとはいえず、東国を中心とした一部のものでしかなく、全体としては鎌倉と朝廷の二元政治というべきものだった。しかし、この承久の乱の戦後処理で、鎌倉の北条義時は、武家政治を確立したと言える。

後鳥羽上皇の膨大な荘園は没収され、幕府がその支配権を握った。また、京方として乱に参画した者は処刑、粛清された。また京に六波羅探題が置かれ、皇位継承をも含む朝廷に対する鎌倉幕府の統制が強化された。

順徳上皇には、上皇が佐渡に流された翌年の貞応元年(1222)に生まれた第五皇子の忠成王がいた。仁治3年(1242)、四条天皇が崩御し、この忠成王が皇嗣候補となり、皇位継承がほぼ確定的なものとなった。しかし、ときの幕府執権の北条泰時は、忠成王の即位に伴って、幕府に強い敵愾心を持つ順徳上皇が帰京することを懸念し、これを退けた。

これにより、佐渡の順徳上皇が都に帰る道は絶たれ、また、自身の子孫の皇位継承の道が絶たれたことで、順徳上皇は、これ以上の存命は不要と、断食を行い、最後は自らの頭に焼石を乗せて亡くなったとも伝えられる。

しかし、山形県尾花沢市には、順徳天皇の陵とされる「天子塚」があり、順徳上皇はこの地で没したと伝えられる。

順徳上皇は、侍従の阿部常次郎頼時の手助けで、密かに佐渡ヶ島を脱出し、日本海を渡り、最上川をさかのぼって大石田に上陸し、尾花沢から舟形山に潜幸した。その後、山を下り、上の宿に御所を構えた。しかしこのとき順徳上皇はすでに50歳を超えており、また、武家政治は揺るぎのないものとなっており、上皇の考える世に戻すことは不可能だった。上皇は寛元4年(1246)7月、この地で崩御したと云う。

塚は三段になっており、下壇は方十間、中壇は方七間、上壇は方三間ある。中央に老杉があり、その下に遺骸が収められ、古くから壇上に上らないように戒められていたという。

天子塚の南方1kmほどのところに御所神社があり、祭神として順徳天皇を祀っている。

御所神社の地は、御所山を下りた順徳天皇が仮の御所として雨露をしのいでいた地で、そのうちに病を得て、この地で崩御したと云う。

阿部頼時は聖廟を建てて、代々神官としてこれを守った。神仏混淆の時期には丹生山普明院神宮寺と称し、吉野派の修験として、現在もその子孫が守り続けている。

この地は宮の原といい、近郷には御所神社と称する社が11社あり、その他、御所の宮杉、御所の水、先達跳、小御所、鍋毀石、御所の宮田など、順徳天皇さすらいの伝説が近郷各地に残る。大正15年(1926)帝国議会において、この塚を中心とした伝承の調査が審議され、全国的に話題となった。