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福島県会津若松市の建福寺には、江戸時代の切支丹弾圧による島原の乱の顛末を残す、松倉重頼の墓がある。

松倉氏は、藤原姓あるいは橘姓ともいわれ、もと越中の人で筒井氏に仕えた。松倉重政は、 慶長5年(1600)関ヶ原の合戦では筒井氏のもとで徳川方として出陣、決戦では井伊直政の手に属して軍功があった。慶長13年(1608)、筒井氏が没封になると、松倉氏も一時領地を失ったが、それまでの軍功により、大和吉野郡で1万石を得た。

その後、大坂の陣にも軍功があり、元和2年(1616)、切支丹大名有馬氏の旧領だった肥前に4万石を得た。松倉重政の跡を継いだ勝家は、島原城とその城下町の新築、参勤交代の費用の捻出などのため、領民に過酷な年貢、労役を課し、同時に、領内に多かった切支丹に対しても過酷な弾圧を行った。

寛永11年(1634)には、悪天候と旱魃により凶作となったが、勝家は凶作でも容赦なく重い年貢を取立て、重ねて人頭税や住宅税などありとあらゆる税を新設して取り立てた。年貢を納められない農民や、その責任者である庄屋の妻や娘や子供を人質にとり、年貢が納められないと「蓑踊り」と称し、娘や子供に蓑を着せ、それに火をつけて処刑したと伝えられる。

寛永14年(1637)、村の庄屋与左衛門の妻は身重のまま人質にとられ、冷たい水牢に裸で入れられた。庄屋宅では人々が何とか年貢を納める方法を話し合ったが、もう納めるものは何もなかった。庄屋の妻は6日間苦しみ、水中で出産した子供と共に絶命した。耐えかねた領民はついに蜂起し、代官を殺害し島原の乱が勃発した。

乱はたちまち広がり、農民や切支丹、さらには有馬、小西、佐々、加藤氏の旧臣らも加わり、天草四郎を総大将とする大一揆となった。島原の乱は4カ月続き、幕府側の総攻撃によって鎮圧された。総攻撃と処刑によって籠城していた3万7千人全員が死亡。幕府側も1万人程の死傷者がでたと言われている。

乱の鎮圧後の寛永15年(1638)、松倉藩は、悪政の責任を問われ改易され、藩主勝家は江戸に護送され斬首に処せられた。大名である勝家の斬首は異例であり、江戸時代を通じてこの1件だけであり、いかに幕府が勝家の苛政を重罪としたかがわかる。

勝家は、おそらく処刑地の近くに葬られたのだろうが、墓地の記録は見つけられなかった。もしかすると、その後の幕府の切支丹弾圧への報復の象徴となることを恐れ、隠されたか、もしくはそのまま打ち捨てられたのかもしれない。

勝家は、弟の重頼を養子としており、重頼は会津藩にお預けとなった。保科正之はこの松倉右近太夫重頼を客分として丁重に扱い、常々「右近殿」と呼び、後年、重頼の罪が許された際には、屋敷を与え、保科家の中に席を用意した。しかし、御家再興が叶わなかったためか、明暦元年(1655)自害した。