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会津地方には、各所にマリア観音像のようなキリシタンに関わる遺物や伝承が残っている。会津でキリスト教信仰が広まったのは、天正18年(1590)、切支丹大名の蒲生氏郷が会津の領主となり信仰を広めたことが大きい。全盛期には、2000人程の信者がいたと言われ、特に猪苗代町と、南会津町には信者が多くいたようだ。

蒲生氏郷は城下町を形成し、産業の振興など民生の安定に尽力した。また、城下三ヶ所に天主堂を建てたとされ、その内の一つが、現在の天子神社の地だったとされる。


また、現在の会津若松市七日町阿弥陀寺の御三階櫓は、当時は会津若松城の本丸東側の石垣上に建てられていた櫓で、外見は三階で、内部は四階の建物である。内部の床板は鶯張りとなっており、三階と二階との階段は、跳ね上げ式となり、三階へ階段を収納し、四階へは昇れない構造になっていた。この建物は、その特異な構造から、蒲生氏郷時代には、城内におかれた礼拝堂だったとする説もある。

現在の猪苗代本町の「天司の欅」の地にも天主堂があったとされる。猪苗代は、蒲生氏郷、その子の秀行の代に、岡越後守左内が、猪苗代城代だった。岡左内は熱心なキリシタンでもあり、猪苗代城内に、私財で天主堂や神学校を建て、神父を招いて布教に励んだという。この天司の欅は、幹周が15mあり、ケヤキ種としては日本一の巨木であるとされ、またあらゆる樹種を含め福島県内一の巨木でもある。ケヤキの根元には、かつての天主堂の礎石も残っている。

しかしその後次第に切支丹への弾圧は激しくなり、徳川三代将軍家光の時代になると、徹底した弾圧が行われるようになった。元和8年(1622)、に岡左内が蒲生氏の内紛に巻き込まれ罷免されると、猪苗代では教会の名簿が盗み出され信者は捕縛され刑場に送られ処刑された。

その後、会津には加藤嘉明が入ったが、この加藤氏の時代には切支丹禁制がますます厳しくなり、切支丹は踏み絵や改宗を余儀なくされ、改宗しない者は磔や火あぶりとなった。加藤明成が会津藩主のときに、取り締まりはさらに厳しくなり、寛永12年(1635)、会津の切支丹の中心人物であった横沢丹波が、旧田島町水無の屋敷で捕らえられ、その一族と、屋敷の二重壁の中に匿っていた外国人宣教師もまた捕らえられ、 この薬師河原の地で、逆さ磔や斬首に処せられた。

この処刑場の200mほど上流に涙橋と呼ばれる橋があり、そこには休み小屋があり、処刑されるキリシタンらは、井戸の水で家族らと水杯を交わして別れを惜しんだと云う。

これ以降、会津でのキリスト教信仰はかげを潜めるが、江戸時代を通して、山深い南会津の地では、長く隠れ切支丹として信仰が続けられた地域もあったようだ。このような地域には、今もマリア観音と称される石像や、目立たないように十字を彫った墓や地蔵などが見られる。