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伊達騒動は、寛文事件での原田甲斐の大老酒井忠清邸での刃傷事件によりうやむやに決着した。その経過は、1度目は老中板倉重矩邸で行われ、幼い藩主の伊達綱村には処分がないことが決定した旨が原田甲斐や柴田外記に伝えられている。しかし2度目の審問は、20日後に、当初予定の板倉邸から、大老酒井忠清邸に場所を変更し、行われることになった。

その審問中、原田甲斐は控室で伊達安芸を斬殺し、老中のいる部屋に向かって突入した。驚いた柴田は原田と斬りあいになり、混乱した酒井家家臣に柴田も原田も斬られ、原田は即死、柴田外記もその日のうちに死亡した。事実関係は原田甲斐の「乱心」といえるものでしかなく、幕府方も、意識的にうやむやにしたような気がする。

この寛文事件以前の江戸時代初期は、武断政治により、1622年出羽山形藩57万石、1632年肥後熊本藩51万石、1640年讃岐高松藩13万石などの、有力外様大名は、次々と改易されていった。その後、浪人などからなる由比正雪の乱などから、四代将軍徳川家綱の時代には、文治政治に切り替わったが、加賀藩や仙台藩などの有力外様大名への警戒がなくなったわけではないだろう。

仙台藩二代藩主伊達忠宗の嫡男の光宗は19歳で早世しており、これには幕府による毒殺の疑いを持っている者も仙台藩には多くおり、跡を継いだ三代藩主綱宗は、当時の天皇の従姉妹にあたることから、幕府から警戒されると懸念している重臣たちもいたようだ。

しかしその後、文治政治に切り替わり、藩を改易するのではなく藩はそのまま残し、藩主の弟などの親族に分知させることで力をそぐ政策をとった。南部盛岡藩では、2代藩主・南部重直が嗣子を定めずに病没したため、幕府の命により遺領10万石を、重直の2人の弟に盛岡藩8万石と、八戸藩2万石に分割した。

仙台藩重臣の茂庭周防定元のもとには、伊達綱宗が隠居させられる以前に、幕府御側衆久世大和から、幕府内には、仙台藩分割案があることを話されたという。それによると、伊達62万石のうち、30万石を伊達政宗十男の伊達兵部宗勝に、15万石を仙台藩相談役の立花忠茂に、14万石を伊達忠宗三男の田村右京宗良に、3万石を片倉小十郎景直に分割するというものだったようだ。

万治元年(1658)に忠宗が死去し、18歳の綱宗が跡を継ぐと、伊達政宗十男の兵部宗勝と綱宗の庶兄の田村宗良がその後見となり藩政を見た。兵部宗勝は、嫡子宗興の正室に老中酒井忠清の養女を迎えており、万治3年(1660)には、3万石の分知を受けて一関藩主となり、田村宗良も3万石の岩沼藩主となった。当然、これに対して藩内の反発は強かったと思われ、母の慶月院から伊達政宗の落胤としての訓育を受けた原田甲斐や、若くして隠居させられた綱宗の庶兄の田村宗良は兵部と同じく三万石の分知を受けたものの、伊達兵部と相いれることはなかったと考える。恐らくこれらのことから、伊達62万石の分割論は、仙台藩士たちの中で、真実味のある話として警戒されたと思われる。そしてその陰謀の主体は、老中の酒井忠清であり、後見役の兵部宗勝であると考えただろう。

伊達騒動を考える上で、私は、伊達兵部派と反兵部派と二つに分けて考えているところに、そもそも誤りがあるのではと考えている。実際は、老中酒井忠清と伊達兵部を中心とした仙台藩分割を志向するグループと、伊達安芸ら伊達家一門を中心にした地方知行制を守ろうとする勢力、そして原田甲斐らを中心にした、蔵米知行制へ移行し藩の経済基盤の改革を行おうとする改革派的勢力があったと考える。伊達安芸派と原田甲斐派は、知行制では対立しても、仙台藩そのものを分割解体しようとする伊達兵部派には強い違和感を持っていたはずだ。

原田甲斐宗輔は、慶安元年(1648)に評定役、寛文三年(1663)には奉行首席となっている。甲斐宗輔を奉行に推挙したのは、兵部宗勝とともに後見職にあった田村右京宗良であり、兵部宗勝は宗輔を良くは思っていなかったようだ。田村右京宗良は、人柄は温和であり人望もあったが、気弱な一面もあり、才気活発な宗勝による専横を許すことになったようだ。亀千代を守る三沢初子は、隠居の身の綱宗に相談し、その上で田村右京に相談したと考えられる。田村右京は甲斐宗輔とはかり、宗輔は心きいた家臣を亀千代の小姓としてそばに置いたが、その小姓は寛文八年(1668)の亀千代毒殺未遂事件で、毒見役として死亡した。

伊達安芸の幕府への申し立てにより、伊達藩内の騒乱は幕府の裁定に上ることになったが、当然、これは仙台藩そのものが改易になる恐れもあった。この当時、幕閣の筆頭は大老の酒井忠清だったが、三代将軍家光時代に武断政治を主導し、由比正雪の乱など社会的な混乱を招いた。その反省から、四代将軍家綱時代には、老中板倉重矩、土屋数直ら家綱の御側衆が中心となり文治政治を行い、結果的には酒井忠清の権力は大きくそがれたと考えられる。

忠清の時代の仙台藩にはまだ伊達政宗が存命しており、娘婿の徳川忠輝改易事件では謀反が取りざたされ、また最上藩改易の際には、それに反発するように若林城をつくるなど、酒井忠清からすれば放置できる状態ではなかっただろう。そこで出てきたのが、政宗の死後に伊達兵部に30万石を分知し、仙台藩を分割し力をそぐ案だったと思われる。また、政宗の死後、三代藩主として嘱望されていた伊達忠宗の嫡男光宗が毒殺された。

忠宗はこれに対し、光宗の廟を切支丹に通じる薔薇や白ユリの彫刻で飾り、固く封印した。また同時に徳川家康を祀る壮麗な仙台東照宮を建てた。忠宗のこのような対応は、幕府に対する恭順に見せかけてはいるが、幕府の理不尽に対する強い抵抗でもあり、文治政治を目指す四代将軍家綱の幕閣らは震えあがったかもしれない。

寛文十一年(1671)3月7日、老中板倉重矩邸で1度目の審議が行われた。この審問では、藩主の伊達綱村は幼少であることから、処分はないことが確定したようで、全体として、仙台藩分割を目指す伊達兵部宗勝には、厳しい内容だったようだ。これに対して伊達兵部派は巻き返しをはかり、二度目の審問を、板倉重矩邸から大老酒井忠清邸に場所を変更し、酒井忠清が主導して3月27日に行われることになった。この日、酒井忠清邸には不測の事態に備えて、腕の立つ家臣が集められていたようだ。このような中で、その審問中に、原田甲斐は控室で伊達安芸を斬殺し、伊達安芸や柴田外記、蜂屋可広とともに、酒井家家臣により斬られて死亡した。

ここで原田甲斐が伊達兵部派とすれば、伊達兵部と近い立場の酒井忠清が主導する第2回の審問を台無しにする理由はない。伊達安芸が審問に出て、自分の主張を引っ込めることはまずありえず、伊達兵部派を追い落とすことができたとしても、酒井忠清は、大老の面子にかけて仙台藩の大幅減封、移封は酒井忠清主導の審問では十分に考えられた。原田甲斐の刃傷事件の目的は、第2回の審問を阻止し、第1回の審問に沿った形で決着することを考えたのかもしれない。そうすることで、結果的には酒井忠清の力は弱められ、伊達兵部の野望を除くことができると考えたのかもしれない。

原田は即死、柴田もその日のうちに、蜂屋は翌日死亡した。関係者が死亡した事件の事後処理では、正式に藩主綱村は幼少のためお構い無しとされ、大老宅で刃傷沙汰を起こした原田家は元より、裁判の争点となった宗勝派及び、藩主の代行としての責任を持つ両後見人が処罰され、特に年長の後見人としての責務を問われた宗勝の一関藩は改易となった。

寛文事件後に、原田甲斐の遺体は、江戸芝山の良源院に葬られたが、首だけは密かに船岡に運ばれ埋葬された。その菩提寺が現在の登米市に移される際には、梵鐘に首桶を隠して密送され、改葬されたという。また延安五年(1677)の原田甲斐の七回忌には、遺臣139名が密かに集まり法要を営み、逆心の汚名を受けた主の孤忠を偲び、追福を催したと伝える。そのような原田甲斐が、少なくとも歌舞伎の二木弾正のような「悪」ではなかったはずだ。