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1941年12月の真珠湾攻撃の際に、特殊潜航艇「甲標的」が参加したことは知られているが、その詳細はあまり知られていない。

甲標的の最先任搭乗員の岩佐直治大尉らは、機動部隊による航空機攻撃の他に、甲標的により真珠湾に侵入し攻撃する実行案を立てていた。岩佐大尉らは連合艦隊長官山本五十六大将にその作戦を具申したが、生還を期すことが難しいことから採用とはならなかった。しかし岩佐らは改善策を練り、数度にわたり陳情し、その熱意にほだされる形で、山本長官は作戦を承認した。

甲標的は、全長23.9m、全幅1.8m、全高3.4m、2人乗りの小型潜水艇で、魚雷2本を艦首に装備し、動力は鉛蓄電池だった。航続距離は速度6ノット150km、速度19ノットで33kmほどしかなかった。

1941年12月2日「新高山登れ」が発信され、12月6日、オアフ島南側に接近した伊号潜水艦隊から特殊潜航艇「甲標的」5隻が真珠湾に向けて発進した。12月7日早朝、その内の1艇が、米国海軍駆逐艦「ウォード」により発見され撃沈された。このことはすぐに真珠湾の太平洋艦隊司令部に打電されたが、同海域では鯨などに対する誤射がしばしばあったことからその重要性は認識されなかった。

残る4隻が湾内に侵入、内1~2隻が戦艦ウェストバージニアと戦艦オクラホマに向けて魚雷を発射した。その内1発が戦艦オクラホマに命中、この甲標的によるダメージが致命的になったとされるが、オクラホマはじめとしたアメリカ艦船は、日本軍機の集中攻撃を受け、オクラホマは他にも多数の魚雷が命中し、転覆沈没した。日本軍機の攻撃中も甲標的は攻撃を続け、数名のアメリカ軍水兵がその姿を見ているが、混乱の中その確実に戦果として確認されるものはない。

この時の甲標的の搭乗員に酒巻和男少尉がいた。しかし、出撃前の検査において酒巻艇の羅針儀が故障していることが判明した。このため酒巻艇の出撃は見送られることになったが、酒巻は強硬に出撃を主張し認められた。真珠湾内には入ったものの、羅針儀が故障していることもあり、水深が浅い珊瑚礁に座礁し、なんとか離礁したものの、今度はアメリカ海軍駆逐艦「ヘルム」の攻撃を受けた。これもかわし湾外に逃れたが結局再度座礁してしまった。自爆装置を起動させ、同乗の稲垣清二等兵曹と共に脱出したが、稲垣ともはぐれ海岸に漂着し、対アメリカ戦争での最初の日本人捕虜となってしまった。

結局この作戦で、甲標的は1艇も生還することができず、酒巻を除く9名は行方不明となり、後に大本営は戦死者9人を「九軍神」とたたえ、酒巻の存在は隠された。酒巻は自決を何度か試みたものの果たせず、捕虜収容所では、アメリカ軍兵士の憎悪を一身に浴び、煙草の火を顔に押し付けられるなどの拷問を受けた。しかしその後、次第に日本人捕虜が多くなると、アメリカ兵との間に立ち、日本兵の救済にあたるようになった。

あるとき、ハワイの捕虜収容所内トラブルが起きたとき、自暴自棄になった日本人捕虜たちに、「死ぬなら大義に死ね。つまらぬトラブルで生命を失ったり収容所で自殺するのはバカのすることだ」と諭したという。終戦後の1946年に復員を果たしたが、日本人の対応は暖かいものばかりではなく、「腹を切れ」などと非難されることもあったが、一切弁明することはなく、戦後の日本の復興に尽力した。