仙台藩二代藩主伊達忠宗は、嫡男光宗の死後、側室である櫛笥氏の子、伊達綱宗を後継とした。光宗の死が、徳川による毒殺だったと疑いを持つ重臣もいる中、櫛笥氏はその姉が後西天皇の生母であったため、天皇と綱宗は従兄弟の関係になることで、重臣の中には「幕府から睨まれる」と危惧していた者もいた。
綱宗は万治元年(1658)、父・忠宗の死により家督を継ぐ。18歳で家督を継いだが、酒色に溺れて藩政を顧みない暗愚な藩主とされている。巷間言われている、新吉原の花魁の高尾大夫に入れあげ、身請けを拒絶した高尾太夫を縛り上げ、吊るし切りにしたなどというのは、歌舞伎などでの創作でしかないだろう。
しかし、実際に遊郭遊びなどは行っていたようで、天皇の従兄弟にあたるということで、幕府に睨まれることを避けるために、重臣の意を受けて暗愚のふりをしていたとも言われている。
伊達藩は外様の大藩で、幕府の幕閣は、その力をそごうとしていたと考えられる。綱宗が三代藩主に決まったことに対し、伊達政宗の十男の伊達宗勝は、綱宗の庶兄の田村宗良と共に藩政を見ることになったが、政治干渉を行うようになった。また宗勝は、嫡子宗興の正室に酒井忠清の養女を迎えるなど、幕府との繋がりも強く、万治3年(1660)には3万石の分知を受けて大名となった。
このようなことから、綱宗を支えようとする勢力と、宗勝派の間で家臣団は割れ、藩内には次第に波風が立つようになった。綱宗派の重臣らが、幕府に睨まれないように、意図的に綱宗を「暗愚」に見せかけていたとすれば、それは裏目となり、伊達宗勝により利用され、綱宗は幕府の老中・酒井忠清に叱責され、さらに綱宗の態度が改まらないということで、宗勝らは、綱宗の隠居願いと亀千代の相続を願い出て、綱宗は逼塞を命じられ、綱宗近臣4人が成敗された。綱宗は幕命により万治3年(1660年)21歳で隠居を余儀なくされ、その跡を僅か2歳の長男・亀千代(綱村)が継ぎ、宗勝はその後見人となった。
宗勝は、中央集権をはかり、専制政治を行い、また亀千代暗殺未遂事件まで起きたことで、激高した藩士らによる血なまぐさい事件が頻発し、寛文事件へと向かっていくことになる。
綱宗は、高尾太夫の俗説などから、好色で暗愚とされているようだが、綱宗はその後、品川の大井屋敷に居して、芸術活動に傾倒したようだ。画は狩野探幽に学び、和歌、書、蒔絵、刀剣などに優れた作品を残しており、「花鳥図屏風」などの作品が今に残る。また、その側にあった主な女性は、亀千代を生んだ三沢初子と側室の椙原品との二人だけである。初子は綱宗と同年、品は綱宗より一つ年上であったらしい。初子は幼くして家督を継いだ亀千代の生母として、不穏な仙台藩に残り亀千代を守り養育した。品は綱宗が幕府の命で品川の屋敷に隠居したときに綱宗に従った。そして、綱宗に請うて一日の暇を得て、親戚故旧を会して馳走し、永の訣別をし、以後、一切の係累を絶って、不幸な綱宗に一身を捧げた。綱宗もそれに感じいり、品に雪薄の紋を与えたという。
現在、瑞鳳寺の本堂脇に、雪薄の紋の「高尾門」と呼ばれる瀟洒な薬医門がある。この門は、椙原品の屋敷門と伝えられ、支倉町にあったものを移築したものである。「高尾門」と呼ばれているのも、高尾太夫の俗説からのもので、実際の椙原品は、高尾とはまったくの別人であることはいうまでもない。
綱宗は、正徳元年(1711)、江戸で没した。享年72。また品は、綱宗が72歳で没するまで忠実に仕え、綱宗が没したあとは尼になり浄休院と呼ばれ、仙台で享保元年(1716)、78歳で没した。