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この日の朝は濃い霧が立ち込めていた。霧の中、脇野沢の「海尊神社」と「鯛島」を訪れ、その後、この日のメインで考えていた「仏ヶ浦」に向った。

国道338号線を北に走る。日が高くなるにつれ霧も晴れ、この日は良い天気になりそうだ。しかし、脇野沢から少し走ると「通行止」の看板が出ていた。迂回路も特になさそうだ。地図を広げ調べると、20kmほど戻った、昨日訪れた蛎崎城跡の先の県道を迂回していくしかなさそうだ。

県道から表示に従い西に折れ、川内ダムの脇を通り国道338号線に出た。ここから仏ヶ浦は間近なはずだ。道は津軽海峡を臨む断崖上を曲がりくねりながら北に向っている。何かで見た仏ヶ浦は、断崖上から見下ろしたもので、展望台のようなものがあるのかと思いながら走っていくと、「仏ヶ浦駐車場」の表示板が目に入った。駐車場に入って周囲を眺め回したが、特段の説明板のようなものはない。どうやら駐車場は海岸までの遊歩道の下り口らしい。

天気は良い、足場も悪くない。しかしここまでの途中に見えていた美しい海岸線は、この駐車場のはるか下のはずだ。「行きはよいよい帰りはこわい」である。できれば楽をしたい、人類普遍の原則が頭をもたげ、海岸に下りる車道があるかもしれないという期待から、国道を先に進み少し走ると展望台があった。

白い断崖が眼下に広がる。その断崖は、白い岩の塔が林立して形成しているようだ。「仏ヶ浦」の仏たちなのだろう。やはり浜に下りる車道はないようだ。仏達を間近に拝むためには、先ほどの駐車場から徒歩で歩くしかないようだ。

駐車場に戻り、靴紐を締めなおし、汗拭きのタオルと水のペットボトルを持ち、勇躍、遊歩道を浜に下りはじめた。展望台から眺めた仏ヶ浦の姿は、間近にそれを見なければ収まらない気持ちの高まりを生じさせていた。

林の中の遊歩道は、途中から断崖を下りる階段に代わった。訪れる者も多いのだろう、良く整備されており、そそり立つ岩の間を下りていく。

海岸に下りると、そこは異空間ともいえる光景が広がっていた。百余の羅漢のようにも見える奥の白い立岩群、海岸にそびえる観音像にも見える立岩、仏が座る蓮華座にも似た大岩、この地はあたかも仏達が集う庭のようだ。

昨日は霊場恐山を訪問した。恐山には、死者の魂が集うという。恐山には地獄もあり極楽も有った。そして恐山の西側のこの地は、仏が集う西方浄土なのかもしれない。

この日は晴れ渡り風も無く、白い岩の海岸に、波が静かに流れ込み、小さな渦を巻いて流れ去る。この日の仏達は穏やかで慈愛に満ちた様子ではあるが、極寒の冬の、荒れ狂う海に向って、この仏達はどのような姿を見せるのだろうか。

岩の間から見える、断崖上の展望台は、はるかに薄霧に包まれている。展望台から眺めた仏ヶ浦は、一つの美しい「風景」だった。しかし浜に下りてきて見る岩は単なる風景ではなく、それぞれが人格を持っているように見える。あの断崖をここまで下りてきてそれを眺め、手を合わせる者は少ないだろう。

などと写真を撮り終えて考えていると、二隻の遊覧船が相次いで浜の小さな波止場に着き、多くの観光客が降り立った。なんのことはない、隣の漁港から遊覧船が出ており、あの急な断崖を徒歩で下りてくることはなかったのだ。

帰りは断崖の遊歩道を、はるか上の駐車場まであえぎながら上ることになったが、それでも、仏達を間近に見た身にはさほど苦痛とは思わなかった。

仏ヶ浦を後にして、国道338号線を北上し、大間崎に向かう。途中、願掛岩が岬に聳えている。この岩は、縁結びの岩で、この地の男女が、古くから好きな人に想いが通じるようにと願を掛けたという。今更そのような相手もいないが、とりあえず旅の安全を祈った。

大間町に入り、数箇所歴史散策をし、今回の旅の最遠地の大間崎に向かった。実は、私は大間崎は町からもっと離れた場所だと思っていた。岬の先端は断崖で、人家からほどほどに離れた場所というイメージを持っていた。ガソリンを入れて、スタンドで尋ねると、どうも近くらしい。教えていただいた通りに車を走らせる。市街地を通り「本州最北の地」の表示板を見つけ進み、市街地が切れる海沿いのはるか彼方を見ながら進んで行くと、突然、観光地の雑踏の中に「北端の地」のモニュメントが現れた。

大間崎は、もちろん本州の最北端の地だ。日中は青空も見えていたが、天気は下り坂で、大間崎では小雨が降ってきた。はるかに北海道も見えるはずだが視界はよくない。しかしそれでも「本州最北端の地」の感慨が湧いてくる。

かつて行った竜飛岬や、今回の旅で行った尻屋崎は、私の勝手な「最果ての地」のイメージにはそれなりには合致していた。岬の先端は断崖で、人家からほどほどに離れていた。しかしこの「最果ての地」は、土産屋や食堂が並び、結構にぎやかで断崖もない。

しかし当たり前のことだが、それぞれの地には、通りすがりの旅人には知りえぬ現実がある。竜飛岬は津軽海峡防衛の前線でもあったし、尻屋崎は馬糞が点在する放牧場だった。しかしやはり「最果ての地」は旅人の旅情を誘う。それは恐らくは、岬の彼方にあるものへの恐れと希望なのだろう。

その後国道279号線を東進し、下北半島を∞字形に周り、予定箇所をほぼ周り終え、野辺地町に向かった。下北半島周遊は、ほぼ天候に恵まれたが、この日の午後から天気が崩れ始め、ここにきて小雨が振り出した。帰り道には、陸奥湾の夕日を撮ろうと思っていたが、どうやらそれは無理なようだった。

横浜町の八幡神社を取材し、国道4号線と合流する野辺地に向った。野辺地は南部藩の貿易の拠点として栄えた町だ。また戊辰戦争では、津軽藩と南部藩が野辺地で衝突し、またこの地の代官所は、野辺地湾に来航した西軍の軍艦により艦砲射撃を受けた。

いずれ戊辰東北戦争をまとめようという思いもあり、数ヶ所野辺地戦争の地をまわり、日暮れまでの僅かな時間、「野辺地常夜灯」に寄ることにした。この地には、かつての北前船の拠点の象徴として「野辺地常夜灯」があるはずだ。野辺地の町に入ると、その「常夜灯」は、この地の方々のシンボリックなものらしく、あちこちに標識があり、迷うことも無く着いた。

かつてこの地を訪問したときには、時間がなかったこともあり、また常夜灯はどこにでもあり得るものと考えてスルーしていた。確かに常夜灯は各地に今も残っている。それはその地の方々が、実際の生活の中で、その僅かな光に導かれ助けられて来たという事だろう。とりわけ野辺地の地域の方々にはその思いが強いのだろう。

かつて私は、真っ暗闇の山道を懐中電灯の持ち合わせも無く歩いたことがあった。そのとき、踏み固められた山道の石が僅かに光ることや、残雪が怪しく光ることを知った。またそのとき、たまたま持ち合わせ、時折点けたライターの光がいかに明るいかを知った。真っ暗闇の海で、遠くに光る僅かな常夜灯の光は、海を行くものにとっては命の明りだったのだろう。

常夜灯は、この地のシンボルとして「常夜灯公園」として保存されている。恐らくは多くの方々が海に関わって生きてきたこの地では、この常夜灯は特別なものなのだろう。小雨の中、夜の闇が迫りつつある野辺地湾に、今はこの常夜灯が光を灯すことはないのだろう。しかし今もこの地域の方々の心に灯を灯し続けているのだろう。

2012/07/12

昨日は野辺地を最後に、夜道を花巻まで走り宿をとった。花巻周辺にも未調査の箇所が多くあり、帰り道に花巻を中心に周るつもりだった。しかし天候は朝から土砂降りの雨だった。朝食をとり、9時頃まで様子を伺ったが、天気予報でも晴れそうにはなかった。やむを得ず、小降りの地域があれば、その周辺だけでも周ろうと宿を出発した。

国道4号線を南下し、北上市に入った。雨は小降りになるどころか、ワイパーも利かないほどの大雨だ。そのせわしいワイパーの動きの隙間から「鬼の館」の看板を見つけた。

東北地方で「鬼」といえば、まず考えられるのがアテルイを始めとした中央から忌避された蝦夷たちだろう。この「鬼」達は、暴虐な悪の権化のように扱われてはいても何故か悲しい。それは、東北地方の民が、迫害され虐げられてきた鬼の末裔の心を持っているからかも知れない。

カメラが濡れないようにビニール袋に入れて、駐車場からのわずかの距離を走り駆け込んだ。体はずぶぬれになり、受付の女性が気の毒そうに見ていたが、カメラさえ濡れなければまるで問題は無い。幸いなことに、館内はフラッシュさえたかなければ撮影可能だった。

館内の展示物は、私が考えた「鬼」だけではなく、もっと幅広く、鬼や鬼らしきものまで、鬼剣舞や妖怪まで扱っており、子供たちが喜びそうなものだった。目的とする蝦夷と鬼との関連など、突っ込んだものはあまりなかったが、それはそれで楽しい。

しかしそれでも、あの有名な「アテルイの首」のレプリカがあった。私にとってはこれだけでも立ち寄った甲斐があるというもので、ワクワクしながらカメラに収めた。

外の雨は止みそうにない。今回の旅はここで終わりかもしれない。帰りはおいしい蕎麦でも食べて帰ろうかなどと考えながら、館内をゆっくりまわった。