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宮城県名取市の道祖神社は、藤原実方に関わる伝承があり、近くには「実方中将の墓」もあり、松尾芭蕉が訪れようとして断念せざるを得なかった地でもある。

道祖神社の祭神は、猿田彦神(さるたひこかみ)と天鈿女命(あめのうずめのみこと)の夫婦神で、景行天皇時代に、日本武尊の勧請によるものとする説や、天平年間に孝謙天皇の皇太子である道祖王を祀ったという説などがある。

祭神の猿田彦神は、天孫降臨の際、道を開き案内した事から道の神と伝えられ、このことから、道中安全の神として各地に祀られている。容貌ははなはだ怪異で、「鼻長七咫、背長七尺」とされ、天狗の原形とする説もある。

天鈿女命は、天照大神の岩戸隠れの際に舞を踊り、天照大神を岩戸から導き出した神で、芸能の神として知られている。『日本書紀』には、このとき、「胸乳を露わにし、裳帯(もひも)を臍の下に垂らし」踊ったとあり、性的な所作をもって相対したことになる。

またこの両神は夫婦神であるため、縁結び、夫婦和合、子孫繁栄の神としても尊崇され、男性器、あるいは女性器を象徴する石仏が祀られていたりもする。

この道祖神社の前を、陸奥守として多賀城に赴任していた藤原中将実方が、馬に乗ったまま通ろうとしたとき、村人が「下馬し、再拝してお通りください」とこれを諌めた。

村人の話によると、この道祖神は、都の賀茂の河原の西一条の北の出雲路の道祖神のむすめだったが、勘当されてこの国へ下され、土地の人がこれを崇めて神として祀ったもので、身分によらず男女ともに願い事があるときは、陰部を形作って神前に供えてお願いすれば、叶わずということなかったということだった。

この道祖神の由来を聞いた実方は、「さてはこの神は下品な女神ではないか。下馬して再拝するに及ばず」と言い、馬を打って通りすぎたところ、馬が暴れて落馬し、それがもとで病の身となり命を落としたとされる。

藤原実方(ふじわらさねかた)は、平安時代中期の公家で、歌人として有名。父は侍従藤原定時で、母は源雅信の娘。花山、一条両天皇に仕え、従四位上左中将に至った。しかし、長徳元年(995)に天皇の面前で藤原行成と歌について口論になり、怒った実方が行成の冠を奪って投げ捨てるという事件が発生した。このことが原因で、実方は一条天皇から「歌枕見て参れ」との命を下され、陸奥守に左遷された。

実方は風流才子としての説話が多く残り、石清水臨時祭の舞人を務めたり、清少納言や小大君といった才媛を恋人としたり、華やかな話題には事欠かない人であった。他にも20人以上の女性との交際があったと言われ、『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルの一人ともいわれている。

歌は技巧を極め、雅びで、調べの美しさは同時代の男性歌人のなかで群を抜いている。
  かくとだに えやはいぶきの さしも草
               さしも知らじな 燃ゆる思ひを
  忘れずよ また忘れずよ 瓦屋の
               下焚くけぶり 下むせびつつ
など、掛詞や同音の繰り返しを巧に用いた繊細優美な作は、王朝最盛期を飾るに相応しい秀歌と言える。

実方の死後、都の賀茂川の橋の下に実方の亡霊が出没すると言う噂が流れたことが枕草子に見える。また、やはり死後にスズメへ転生して宮中の米を食い荒らしたとの伝説も伝えられる。

この道祖神社の北、約1kmのところに、実方の墓があり、文治二年(1186)に西行がおとずれ、また元禄二年(1689)、松尾芭蕉もこの地 の近くまで来たが、五月雨のなか悪路に阻まれ、この地をたずね当てることができなかった。この地の4kmほど南東の旧奥州街道の地に芭蕉の無念の句碑が立っている。
  笠嶋は いづこさ月の ぬかり道