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相馬市の松川浦の港に、巨大な丹下左膳の石碑が立つ。平成元年(1989)に建てられたものだが、実際にはもっと巨大なものだったのが、立てるときになり、大きすぎて法律的に問題があることがわかり、半ばは地中に埋められていると云う。

松川浦は、東日本大震災での大津波により、大きな被害を受けたが、この石碑は、根が深く入っていたことで、破損することはなかったようだ。

丹下左膳は、昭和2年(1927)、毎日新聞に連載された林不忘の新聞連載小説「新版大岡政談・鈴川源十郎の巻」で、その作品内に出てくる架空の剣士の名前。しかし相馬には、丹下左膳は実在の人物、あるいはモデルとなった人物がいたと信じる者も多く、碑の建立となったものと思われる。

この丹下左膳は、その強いキャラクターで、小説では脇役だったにも関わらず人気を博した。そのためその後は主役として続編も作られ、映画会社3社も競ってこれを映画化した。主人公を演じた俳優は、団徳麿、嵐寛寿郎、大河内傳次郎の3人だった。それぞれ独自の魅力を発揮してヒットし続編が作られた。

時は、徳川八代将軍徳川吉宗の時代、奥州相馬中村藩の藩主、相馬大膳亮の家臣丹下左膳は、主君の密命を受け、関の孫六作、夜泣の名刀「乾雲丸、坤竜丸」大小一対を求め、不浄門を出て江戸に向かった。丹下左膳は、隻眼隻腕の異様な姿の剣士で、女物の赤い襦袢の上に墨襟の白紋付に髑髏を染め抜き、愛刀濡れ燕を左手で抜き放ち次々と表れる剣客と切り結ぶ。乾雲と坤竜の名刀は、離れ離れになり、互いに一方を求めて夜泣きをし、一緒になるまでは血を見ずにはいられない。

最後に、左膳は遂に二刀を手に入れ、相馬藩松川浦へと船で向かうが、その船は相馬沖で難破し、筏に乗った左膳は夢うつつのまま相馬沖をただよう。

相馬の方々の思いとは異なり、丹下左膳のキャラクターは、通常の小説とは異なり、読者の反応により、次々に変化していったようで、固定的なモデルがいたようには思えない。しかしそういう中で、強いて丹下左膳のような相馬藩関連の剣豪を挙げるとすれば、幕末の剣豪、千葉周作の曽祖父(あるいは祖父?)の、吉之亟常胤がいる。

吉之亟は村雨一流の剣士で、御前試合で同門の山上某と戦い敗れた。吉之亟はこれを武門の恥辱とし、家名を汚したことを大いに恥じ、妙見神社に参詣し、自らの武術の上達を祈願した。するとある夜、神から剣法の秘訣を授けられた夢を見て、その後、急激に剣術に磨きがかかった。吉之亟は、北辰妙見から授けられた秘法を、新流派として、北辰夢想流と名づけた。

吉之亟は各地を流浪し、宮城県栗原市に落ち着いたようだ。吉之亟の本来の姓は不明で、栗原の千葉氏との関りの中で千葉氏を名乗るようになった。周作はこの吉之亟から剣の手ほどきを受けていたようで、その後、幕末の江戸で北辰一刀流を起こすことになる。

もちろん、丹下左膳は架空の人物ではあるが、千葉吉之亟をモデルとして考えれば、架空の丹下左膳はアウトローとして活躍したが、現実の吉之亟は、幕末の千葉周作道場で、坂本龍馬や清川八郎などに繋がっていったことになる。

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