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結城氏はムカデ退治で有名な、藤原秀郷の後裔頼行を祖とし、朝光のときに結城を領して以降結城氏を名乗った。朝光は、治承4年(1180)の源頼朝の挙兵に従い、また文治5年(1189)、源頼朝の奥州征伐にも出陣し、その功により、白河・岩瀬・名取の三郡を与えられた。その後の正応2年(1289)、結城広綱の時に、弟の祐広が白河に下向し、白川城を築き本拠城とした。

白川城は、白河市街の東、阿武隈川の川筋を南から一望できる丘陵にある。御本城山と呼ばれる山頂の平坦部が主郭跡で、空堀と土塁で守られており、周辺に多くの郭が配されている。主郭はかなり広く、北側に土塁が見られ、また坂を下った場所には虎口も残っており、東側には鐘撞堂とされる平場がある。北側藤沢山には二の郭、また、南西部の丘陵にも遺構が存在し、郭と郭の間には土塁や空堀などの遺構が確認されている。

南北朝期の宗広の代の時、宗広は、子、親光とともに南朝方の忠臣として白川城で勇戦し、元弘3年(1333)には、太守義良親王と、陸奥国司、北畠顕家をこの地に迎えた。鎌倉幕府が倒れ建武の親政が始まり、北畠顕家が陸奥守に任じられると、顕家は宗広に陸奥国諸奉行のことを委任した。建武元年(1334)正月、陸奥国府の新体制が成立し、宗広・親朝父子は式評定衆に任命された。建武奥州府の要職についた宗広は、顕家の意向により、下総結城氏に代わり結城氏惣領の立場が与えられた。

結城宗広の時、鎌倉幕府が倒れ建武の親政が始まり、北畠顕家が陸奥守に任じられると、顕家は宗広に陸奥国諸奉行のことを委任した。建武元年(1334)正月、陸奥国府の新体制が成立し、宗広・親朝父子は式評定衆に任命された。建武奥州府の要職についた宗広は、顕家の意向により、下総結城氏に代わり結城氏惣領の立場が与えられた。

建武3年(1336)正月、足利尊氏は後醍醐天皇を京都から追い出した。北畠顕家は結城宗広・親朝父子らとともに、北朝方の斯波氏や相馬氏らを撃退し、近江で新田義貞の軍と合流して、足利軍を都から追い落し京都を回復した。

しかし、九州に落ちた足利尊氏は軍容を立て直し、ふたたび東上の軍を起こし、京都を奪還した。北畠顕家はふたたび兵を率いて上洛の途につき、結城宗広も後事を親朝に託し顕家と行動を共にした。しかし、阿倍野の合戦において北畠顕家は戦死し、奥州軍は壊滅的な敗戦を被り、結城宗広は伊勢で陣没した。その後、南朝方衰退の中で、結城氏は北朝方に服属した。

白川城北側の断崖に感忠銘碑があり、江戸時代の文化4年(1807)、白河城主の松平定信のめいにより、この結城宗広、親光父子の忠烈を後世に伝えるため、その事績を刻んだものである。

関東に大乱が続いた15世紀、足利将軍家が南奥の国人諸氏に下した御内書には、白川結城氏と談合して事を行うよう命じたものが多かった。このことは、当時、白川氏を南奥の覇者であることを幕府が認めていたことを示している。白川氏は、諸郡検断職の伝統に基づき、那須家の内訌を調停するなど関東諸氏に勢力をおよぼし、当主が直朝のときに頂点を迎えた。

文安年間(1444~09)には、岩城一族の岩崎氏の紛争に介入し、いわき地方に勢力を張り、おなじころ石川氏に対しても介入し、会津地方に対しては、当主盛詮の危機を弟小峰直親とともに再三にわたって救援した。

しかし、政朝のとき、分家の小峰氏との間に争いが生じた。小峰氏は白川氏の最有力一族だったが、政朝は小峰氏の当主朝脩を自殺させた。政朝ははじめ小峰直親の娘を室とし、顕頼をもうけたが、のち葦名氏から後妻をめとり、その間に生まれた五郎を愛し、嫡子顕頼に家督を譲ろうとしなかった。朝脩の自殺は、顕頼をめぐる白川・小峰両氏の緊張の結果だった。

小峰朝脩の父直常は、岩城常隆の援助を受け、永正7年(1510)9月、政朝を急襲した。白川政朝は、次男の養家先の那須に走り、以後消息を断った。その子の五郎は、葦名氏を頼り会津に逃れた。白川氏は嫡男の顕頼が継いだが、白川宗家と小峰氏との結束はくずれ、結城白川氏の家運をかたむける要因となった。

白川氏の混乱に乗じ、同年、佐竹氏は白川領の依上保を侵攻、いわき地方の所領もまた、岩城氏の手に帰し、関東地方の所領の多くも、このころに失われた。以降、白川氏の所領は、白川郡・高野郡、および石川庄の一部のみになった。その後、天文初年(1532)から、田村隆顕は白川氏を攻め、白川領四十二郷の半分を攻めとった。

天文11年(1542)から同17年(1548)の、伊達稙宗・晴宗父子の抗争の「天文の乱」の際に、葦名氏は勢力を大きく伸ばし、岩瀬郡長沼地方から白川領にまで及んできた。また、常陸の佐竹氏は、白川領の高野郡南部に侵入し、白川領の南境は佐竹氏の手に落ちた。

その後、白川氏は葦名氏と結び、那須氏や、須賀川の二階堂氏などの侵攻に当たっていたが、白川氏にとって最大の脅威は、佐竹氏だった。永禄3年(1560)、佐竹氏は南郷に進出し、南郷はことごとく佐竹氏の手におちた。佐竹氏は以降、南郷を拠点として仙道進出の軍事行動を進めていく。

当時、白川氏の当主晴綱は重病で、嫡子義顕は六歳の幼児だったため、一族の小峰義親が軍事指揮に当たった。天正2年(1574)佐竹義重は赤館まで進出し、これに対し白川氏は、葦名氏や田村氏とともに出陣したが、佐竹義重は赤館城や近隣の諸城をすべて落し、ついに白川本城まで攻め落とした。白川義顕は那須に逃れ、結局、白川氏は佐竹氏の軍門に下り、義顕は白川城に戻ることを許された。

しかし白川城は義顕の後見だった小峰義親により乗っ取られ、白川氏はさらなる混乱に陥いった。佐竹氏はこれを見逃さず、白川城をふたたび攻め落とし、白川領全土を手中にした。白川城には白川氏の養子として、佐竹義重の二男義広が入り、白川領は平静を取り戻した。

会津に逃れていた白川義顕は、葦名氏の尽力で白川領に戻り、小田川の岩窪切岸城を与えられた。葦名氏滅亡以後、白川城に戻っていた白川義親は、豊臣秀吉による奥州仕置の結果、白川氏は所領没収となり、諸国を放浪の後、慶長6年(1601)、伊達政宗に召し抱えられ、子孫はのちに伊達一門に列せられた。

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