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宮城県白石市には、真田幸村の墓とともに、幸村の子供の於梅と大八、於菖蒲の墓がある。

真田幸村は本名は信繁(のぶしげ)、永禄10年(1567)真田昌幸の次男として生まれた。関ヶ原の戦いの際には、嫡男の信之は東軍に、昌幸と信繁は西軍につき、信繁は父とともに上田城にこもり、徳川秀忠の軍を足止めにした。関ヶ原の戦いは徳川方の勝利となり、戦後、昌幸と信繁は、信之の取り成しもあり、紀伊の九度山に配流され、この地で父昌幸は没した。慶長19年(1614)「方広寺事件」をきっかけに徳川氏と豊臣氏の関係が悪化すると、信繁は大阪の要請に応じて旧臣たちとともに大坂城に入城した。

慶長19年(1614)に始まる大坂冬の陣では、大坂城の弱点であった三の丸南側、玉造口外に真田丸と呼ばれる三日月形の出城を築き、鉄砲隊を用いて徳川方を挑発し先鋒隊に大打撃をあたえた。しかし、翌年の大坂夏の陣では、道明寺の戦いにおいて、伊達政宗隊の先鋒を銃撃戦の末に一時的には後退させた。しかし、豊臣勢の主だった武将は次々と討死し、信繁は豊臣秀頼自身の出陣を求めたが、側近衆や母の淀君に阻まれた。

これにより、大坂方の敗北は避けられないと覚悟した信繁は、道明寺の戦いで戦った伊達勢の片倉重綱を知勇兼備の将と見込み、於梅、於菖蒲、大八ら子弟の養育を託したと云う。また一説には、道明寺の戦いで奮戦する重綱を見込んだ信繁が、この将ならばと、片倉の陣に矢文を送り、於梅との婚姻の儀を申し入れたとも伝えられる。

片倉重綱は、伊達の三傑と称された片倉小十郎景綱の嫡男で、関ヶ原の戦いの際の白石城攻めで初陣を果たした。大阪冬の陣では、病の父に代わって政宗に従い参陣し、敵将の後藤基次を討ち取り、後続の真田勢と戦い大いに名声を上げた。戦後、父景綱からは、一軍を預かる将として軽率だとして叱咤をうけたが、世間からは父に劣らぬ智勇兼備の名将として「鬼の小十郎」と称された。

信繁は毛利勝永と共に作戦を立て、豊臣方右翼として真田軍、毛利勝永軍を左翼として四天王寺、茶臼山付近に陣を敷き、射撃戦と突撃を繰り返し家康の本陣を孤立させ、明石全登の軽騎兵団を迂回させ家康本陣を横撃させるというものだったと云う。しかしこの作戦は、指揮の乱れなど寄り合い所帯の弱点を露呈し瓦解した。

このため信繁は、正面から徳川家康の本陣めがけて決死の突撃を敢行し、毛利勝永勢、明石全登勢も奮闘し家康本営に肉薄した。真田勢は越前松平勢を突破し、徳川勢の隙を突き家康の本陣まで攻め込み家康旗本勢を蹴散らし、家康は一時は自害を覚悟したほどだったと云う。しかし、多勢に無勢、ついに四天王寺付近で討ち死にした。

信繁は討ち死にを半ば覚悟しており、於梅に大阪城落城の折には、片倉重長を頼って落ちることを命じていた。於梅はこの時12歳で、ともに大阪城を脱出した於菖蒲は8歳、大八は4歳だったという。於梅は妹や弟を引きつれ、白綾の鉢巻、白柄の長刀を抱えて、敵陣に分け入った。勝ちにおごった東軍は、略奪や狼藉を働く者も多かったが、臆することなく「片倉重綱の陣はいずくぞ」と尋ねる於梅らに手出しする者はいなかった。

片倉重綱の陣へ入った於梅は、誰の娘であるかは名乗らなかったが、その様子は凛とし、太閤様の息女ではないかなどと、様々に取りざたされた。後に、その家来の者が尋ね来て、真田左衛門佐信繁の息女とわかった。真田の家臣たちは、「寄手諸将のなかに片倉かねての英明、殊にこのたび目を驚かす。武功の事なれば末繁盛ならんことを予め斗り、容色万人に勝れたる息女なれば、捨てたまうべきにあらずと信繁申し置き、重綱公の陣の前へ物し出したるならん」と皆言ったと云う。

重綱は驚きながらも、於梅らを江戸にいた奥方綾姫のもとに送り匿った。重綱は、信繁の遺児らを、白石城二の丸でひそかに養育した。於梅は綾姫の侍女として匿われていたが、綾姫はことのほか於梅を気に入り、妹のように接していたという。於梅が17歳の時に綾姫は没したが、そのとき於梅に重綱の後室になることを頼んだとされる。

重綱との間に子は生まれず、綾姫の娘の子の景長を養子とし訓育した。於梅は後に城南森合の地に一寺月心院を建立し、亡父信繁の霊を弔らい天和元年(1681)78才で逝去した。片倉氏2代の菩提寺である当信寺に墓所があり、如意輪観音像を墓標としたものだったが、墓石を削った粉を飲めば歯痛に効くという迷信が広まり、原型を留めていない。

於菖蒲は、伊達政宗正室愛姫の弟で、片倉景綱の異父姉で伊達政宗のめのとも務めた、少納言喜多の名跡を継いだ田村定廣の室となり、幸村の墓は、この於菖蒲の墓とともに田村家墓所にある。

大八は片倉家の家臣として召し抱えられ、真田守信を称した。寛永元年(1624)頃、伊達家は「大八君八歳の時京都にて印地打ち観覧中石に当たり他界」という虚報を流し守信の存在を隠した。300石を与えられて仙台藩士となり、寛文10年(1670)、享年59で没した。その後、「既に将軍家を憚るに及ばざる」と内命を受け、公に真田姓を名乗る事が許され、その子孫は仙台真田家として今なお続いている。

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