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白鳥城跡は村山市の西北西、白鳥の戸沢中学校の裏山にある。白鳥氏が寛治5年(1091)に築いたとされ、その後永禄年間(1558~70)、白鳥十郎長久の代に谷地城に移るまでの約460年間、白鳥氏の本拠城であったと思われる。葉山と最上川を利用し、周囲に支城を配した壮大な構えの山城で、普段の居館は山麓の宮下にあったと考えられている。

主郭の頂上平場は、東西約20m、南北約25m、北側に一段下がり東西約20m、南北約60mの平場があり、全体で本郭を形成している。西側に大堀切、東側に帯郭が配されている。東側に二の郭があり、北側の見張り場の役割も持っていた。また南側には「上野」と呼ばれる台地があり、三の郭として主だった家臣の屋敷などが割り振られていた。白鳥城の周辺に、鳥屋森には見張り場、毛倉森には小さな出城、柏木森には比較的大きな出城と最上川の監視場が置かれた。また、最上川と樽石川の合流点の北側に碁点楯を置き最上川交通の監視を行い、この館から白鳥本城まで直通の「楯道」があった。

白鳥氏の出自は定かではないが、一説には、前九年の役で源頼義、義家父子に討たれた安倍頼時の八男、安倍行任が胆沢郡から逃れて出羽の葉山山麓に潜伏し、白鳥冠者八郎を名乗ったのが始まりともいう。また寒河江大江氏の一族という説や、白鳥郷の館主として勢力を伸ばした国人との説もある。

白鳥氏は、南北朝期には一定の勢力を持っていたようで、応永9年(1402)の鎌倉公方と伊達政宗の戦いでは、最上氏、大江氏とともに鎌倉公方についたことが記されている。南北朝の争乱を生き抜き、戦国時代には葉山修験の勢力を背景に、寒河江大江氏と共存しながら最上川西側一帯に勢力を伸ばしていた。

白鳥十郎長久の代に、白鳥氏はさらに勢力を拡大し、現在の山形県河北町の中心部にあった谷地城に移った。谷地城は中条氏の居城であったが、六代目の中条長昌には子が無く、永禄年間(1558~70)、白鳥十郎長久に城を譲ったと伝えられる。十郎長久は城下の整備を行い、農業はもとより諸工業生産の保護奨励にも力を入れ、城下に鋳物師や刀鍛冶、大工などの職人を住まわせた。また、家臣を城下に住まわせ、市場を開設し、商業の隆盛にも力を注いだ。天正2年(1574)には、最上義守、義光父子の内紛を仲介するなど、最上川以西に一定の勢力を築いていた。

また天正5年(1577)には、十郎長久は織田信長に名馬白雲雀を献上し、信長はこれをいたく喜び、返礼として書状とともに虎皮や豹皮などを贈っている。十郎長久は奥羽の地にありながら、中央の政治動向に通じ、天下の情勢を的確に判断していた。そして織田信長に従属することで、最上義光に対抗しようとしたのだろう。しかしこれは、出羽統一を進めている最上義光にとって看過できるものではなかった。

義光はこの時期、天童氏を武力によって制圧したが、白鳥氏に対しては、十郎長久の武略を警戒し、婚姻による懐柔策をとった。義光は、嫡男の最上義康と長久の娘の縁組を行い、また十郎長久の後室として娘を嫁がせ、最上氏と白鳥氏は姻戚関係となった。その上で、義光は十郎長久を山形城に招いたが、十郎長久は義光の謀略を警戒してそれを受けなかった。

最上義光は重病と偽り、「嫡男義康の岳父の長久に後事を託したい」と再三にわたり十郎長久に使いを送った。天正12年(1584)、長久は、家臣たちには反対の声もあったが、ついに山形城に出向いた。長久が奥の間に案内されると、最上義光は病床に臥せっており、長久が見舞いの辞を述べ始めると、義光の家臣二人がとびかかり、十郎長久の狩衣の袖とすそに4寸釘をつきさし動けなくし、そこを義光がふとんの下に隠してあった刀を取り出して袈裟切りに切りつけて首をはねたという。十郎長久の従者たちも、城内ですべて切り殺された。この時に飛び散った血は庭の桜の木を赤くそめ、この桜の木は「血染めの桜」として近年まで残っていたとされ、また、十郎長久の首置石が現在も山形城跡に残っている。

十郎長久を謀殺した最上義光は直ちに、主を失い家臣らが篭る谷地城を攻めたて城は落城した。ついで白鳥氏と同盟関係にあった寒河江氏も攻め滅ぼした。谷地城には、十郎長久が織田信長から出羽支配を託され、その証として拝領した鎧兜があったという。家臣たちはこの鎧兜を隠し、その後義光はこの鎧兜を探させたがついに見つからなかった。

家臣らは散り散りになったが、十郎長久の首級は重臣らによって隠され、最終的に、山形県大石田町の円重寺に埋葬された。円重寺の裏山に、縦2間、横4間、高3尺の塚があり、白鳥十郎長久の首塚と伝えられており、地元の方々はこの塚を「旦那首(だんなぐし)」とよんでいる。また、墓は、かつての谷地城内の、菩提寺の東林寺にある。

また長久の後室となった義光の娘は城から逃れた。その後、父義光により探し出され帰参をすすめられたが「父とも思わない」とし寺に入り十郎長久の菩提を弔った。義光は、1日米5合の割で、田とたきぎ山を一代限りあたえ、義光の娘は、この米を節約し、白鳥氏の守り神の八咫烏の三本指跡のついた独得のゆべしを作り里人に売らせたと伝えられる。

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