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現在の山形県朝日町に春日沼はあり、その沼の東側にあった八ツ沼城の落城伝説を伝えている。

八ツ沼城は比高約110mの丘陵上にあり、村山、置賜地方を結ぶ要地にあたる。東は最上川に接し、西の春日沼側は急峻な崖となっている。城域は定かではないが、現在の三中の集落も含む一帯が城域であったと思われる。

文明年間(1469~87)、原美濃守頼貞が敦賀よりこの地に到り、この城を整備し代々居館としていた。天文の乱後に、米沢には伊達氏が入り、山形には最上氏が、寒河江には大江氏がおり、その挟間のこの地は微妙な緊張状態にあった。

永禄年間(1558~70)、この地に隣接する鳥屋ヶ森城主の岸美作守に、弥生姫という美しい姫がいた。その姫と八ツ沼城の若君の原兼道が、薬師様の祭りに出会い、相思相愛の仲になった。二人はこの地の名勝地でもあった春日沼で逢瀬を楽しんだりしていた。しかしこの弥生姫を、北に隣接する和合城主の和合秋広が見初めた。

八ツ沼の原氏と鳥屋ヶ森城の岸氏にとっては、兼道と弥生姫の婚姻は、周辺勢力への対抗上、両家が結びつくうえでも好ましいもので、二人の結婚話はとんとんと進み婚約に至った。しかしおもしろくないのは和合秋広で、その結婚の当日、八ツ沼に向かう花嫁の略奪をはかり、途中の宮宿清水の渡し場で花嫁行列を待ち伏せし襲ったが、行列を守っていた侍に撃退された。

腹の虫が納まらない和合秋広は、山形城主最上義光に、八ツ沼と鳥屋ヶ森は手を結び山形城をねらっていると讒言した。最上義光が、その讒言をそのまま信じたとは考えられないが、天文の乱の結果、伊達氏の頸木から離れた最上氏は、出羽統一を目指しており、和合氏からのその話は渡りに船だったのだろう、永禄8年(1565)、和合秋広の手引により早速に大軍を発した。

この時期の最上義光は血気にはやった若者で、引き止める兵達を振り切り、真っ先かけて敵の八ツ沼勢と渡り合い、鉄棒を振り回して戦ったという。これを見た重臣の氏家守棟は「大将ともあろう方が、雑兵の首を取って誰に見せようというのか」と厳しく諌め、義光は取った首をかたわらにいた兵に与えてしまったという。

八ツ沼・鳥屋ヶ森勢は、城に鹿垣や逆茂木を配し、善戦したものの、多勢に無勢、次第に敗戦の色が濃くなった。ついに落城が避けられない状況となり、兼道と弥生姫は二人そろって城の後ろ側の屏風谷へ下り、この春日沼に身を沈めた。

二人は今も湖底で睦まじく暮らしていると云う。この湖面に木の葉が浮かないのは、弥生姫が毎朝早くに、湖面をほうきできれいに掃き清めているからだと伝えられる。

その後、最上義光は、妹義姫を娶った米沢の伊達輝宗と協力関係を結び、北方の天童氏を滅ぼし、村山郡を手中にし出羽統一に進むことになる。

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