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宮城県色麻町では、各所にカッパの像が見られる。カッパと言えば、日本各所に伝説があり、人間生活の身近にいる「妖怪」の一つとして、様々に語られている。この地には、次のようなカッパの伝説が伝えられている。

ある殿様の館に、夜な夜なカッパが現れ、厠に来るお姫様に悪さをしようとした。それを聞いた若侍が、お姫様に扮して厠でカッパを待ち伏せし、あらわれたカッパの腕を切り落とした。カッパは「腕を返してくれたらお姫さまに、近よることはしない」と、その非を悔いて一心にたのんだ。

カッパは、河童膏(かっぱこう)という膏薬を持っており、それを塗るとどんな傷でもたちどころにくっつくということだった。そこで若侍は、腕と河童膏を交換した。この河童膏のおかげで、若侍は、戦で傷を負ってもすぐに治り、大いに手柄を立てることができたという。

この河童膏は、傷をくっつけるだけではなく、好き合っている者どうしがその河童膏を塗ると、めでたく結ばれるともいわれ、縁結びの薬でもあったと言う。ただ、これをみだりに用いると、ただちに河童の罰(ばち)があたるといわれている。

この地の磯良(いそら)神社は、「おかっぱ様」とも呼ばれ、ここには、木彫りの河童が御神体として祭られている。磯良神社の創建は延暦 22 年(803)と古く、征夷大将軍の坂上田村麻呂の勧請によって建てられたと伝えている。ここでこの地のカッパは、俄然、民話から歴史の舞台に躍り出て来る。

奈良時代の初め頃、陸奥と出羽の両国を監察する按察使が将軍大野東人だった。東人は、両国の軍事的直道の確保が急務であるとし、天平9年(737)2月に多賀城を出発し、この色麻の地を出羽への拠点として「色麻柵」を設け、騎兵196人ほか約6千人の兵を置いた。同年3月に奥羽山脈を越えて、出羽雄勝の蝦夷を帰順させたとされる。

この「色麻」の地名の由来は、播磨国飾磨(しかま)で、色麻柵造営にともない、播磨からこの地に移り住んだことに由来すると考えられている。やがて中央政府によって「色麻郡」として建郡され、色麻柵は開拓、防備の中心地として屯田兵が置かれ、多賀城国府直営の窯が置かれ、多賀城及び多賀城廃寺の屋根瓦が焼かれた。

延暦16年(797)には、坂上田村麻呂が桓武天皇により征夷大将軍に任じられ、延暦20年(801)に蝦夷征討の遠征を行った。このとき、この色麻の東右衛門という男が、坂上田村麻呂の水先案内を努めた。東右衛門は泳ぎが達者で、激流の川を泳ぎ、数々の功績を立てた。この功績により、東右衛門は田村麻呂から、「川童(かわらべ)」の姓と土地を与えられた。東右衛門の死後、河童明神の祠を建て祀ったとも云う。以来、磯良神社の宮司は、代々「川童」を名のり、それは今も受け継がれている。

磯良神社は今も「おかっぱ様」として地域の信仰を集め、祭日には、子供たちはおかっぱ様から小さな水難よけの守り札をもらい受ける。水泳ぎをするときには、これに糸を通して肩からかけて泳ぐと、水難に会うことがないと伝えられている。

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