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寛政4年(1792)にラクスマン来航事件が起きると、東北地方諸藩には幕府より蝦夷地警備が命じられ、南部藩は根室と函館周辺の警備を命じられた。またこの時期は冷涼な気候が続き、稲作の北限地区でもあったにも関わらず、稲作を強行していた南部藩領は、連年、凶作に見舞われていた。

さらに、蝦夷地出兵の功績ということで、南部藩は石高10万石から20万石の家格とされたが、これは家格が上がっただけで、実質税収はあがらず、逆に20万石相当の軍役を負担させられることになり、藩財政は窮迫した。

南部藩は、それを新税や重税で解消しようとし、「軒別税」と呼ばれる人頭税を実施するなど、無理な課税を行った。また藩札「七福神」を大量発行したことによりインフレが発生し経済が混乱した。また幕府の手伝い普請の際には臨時課税を行い、民衆の不満は高まっていった。

天保 7年(1836)暮、盛岡南方一揆が発生する。各村々は御用金の免除などを要求し強訴を行った。南部藩は一旦要求を受け入れたが、一揆解散後は約束をことごとく取り消し、首謀者を処刑した。これに憤慨した一揆勢は、翌天保 8年(1837)初め、盛岡南方一揆が再発し、このとき一揆勢は仙台領に逃散し、南部藩を非難する挙に出た。

これに驚いた南部藩は、一揆衆を取り戻すため、首謀者を処罰しないことを約束し、仙台藩は幕府に内密にすることを約束し、一揆衆を南部藩に戻した。しかし南部藩は一揆衆を取り戻すと又も約束を破り、首謀者を処刑した。

この時期の南部藩主は、第十二代藩主南部利済だった。利済の父の南部利謹は、乱行により廃嫡謹慎させられた人物で、油町の町人の妻を強引に側室にし(油御前)、昼間から側室の部屋に入り浸り情事にふけるなど、非常に好色であったと伝えられる。利済はこの南部利謹と油御前との間に生まれ、父が死去すると、浄土真宗の願教寺に出家していた。

しかし文政8年(1825)、病弱だった第十一代藩主南部利用が嗣子なくして没し、利済がその跡を継いだ。利済は、母の油御前と先夫の間に生まれた異父兄の石原汀を重用するなどしたことから、一揆衆には「油御前の浮気の結果、南部利済が生まれた、利済には南部氏の血が流れていない」という噂が流された。

天保9年(1838)、家老に横沢兵庫が就任し、盛岡南方一揆後も、様々な物件に御用金制度を設け無理な課税が続けられた。また藩主の南部利済は普請好きで、盛岡城本丸御殿を大改造し「聖長楼」を建築、大奥の女性を7、80人から300人余りに増やし、大奥の経費は増大した。

他にも広小路御殿を造営し、盛岡に遊廓を造り、志波稲荷街道の拡張整備を行うなど、これらはすべて領民への課税となり、百姓一揆の要因となった。

これらを賄うために、天保10年(1839)から様々な新税を課し、さらなる御用金も賦課した。中でも、海岸線の宮古通り、大槌通り、野田通り、三閉伊通りへ課せられた御用金は、他の通りに比較して大きかった。

現在の田野畑村牛切に、牛方の弥五兵衛なる者がいた。弥五兵衛は、このような南部藩の悪政に対して、半生をかけて盛岡藩全域を海産物や塩荷駄を運びながら、全領一揆を説いて歩いた。弘化4年(1847)10月、この弥五兵衛総指揮の下、三閉伊地方で総勢1万2千人余りが立ち上がった。

一揆勢は、盛岡藩筆頭家老南部弥六郎の領地の遠野に押しかけ、遠野南部家に対して、新たに課された御用金の撤廃をはじめとする26ヶ条の要求を提出した。これに対し遠野南部家は御用金の全免をはじめとして12ヶ条を許可、一揆は遠野南部家から帰路の食料を支給されるという異例の扱いを受け帰村した。

この一揆の結果、家老横沢兵庫は罷免され、藩主南部利済は隠居となったが、弥五兵衛はその藩政の改革が不十分であることを見通し、さらなる一揆の勧誘を行なっていた。しかし弥五兵衛は、嘉永元年(1848)1月に捕縛され、直ちに盛岡の牢に入れられた。取り調べに対し弥五兵衛は、不敵にも「一揆は家老の横沢兵庫に頼まれて起こした」とか、「其の方の親類は..」との問いには「南部利済公の一の親戚」と答えるなどしたという。公式には牢死したとされたが、実際には斬殺されたという。

その後、弥五兵衛が懸念していたように、隠居していた南部利済が復権し反対派を弾圧、一揆加担者に対する弾圧にも苛烈に乗り出し、遠野強訴での公約は破棄され、以前の側近政治に戻し、新税、増税、御用金をさらに民衆に課した。

これに対して、嘉永6年(1853)、田野畑の太助を発頭人筆頭とし、野田通から再び一揆が起こった。一揆勢は白赤たすきをして、筵旗に「小○(困るの意味)」と記し、槍隊、棒隊と隊列を組んで浜通りを南下し、資産家に軍資金や食料を供出させ、出さないと家財家屋を打ち壊し進んだ。

田老、宮古、山田の各村を押し出すにつれ一揆勢は大群衆となり、釜石に達したときは約1万6千余人にも達した。これまでのことから、南部藩の対応に見切りをつけていた一揆勢は、その半数は間道を進み藩境を越えて仙台領気仙郡唐丹村へ入り、仙台藩に政治的要求3ヵ条と具体的要求49ヵ条を提出した。

その要求は「三閉伊通の百姓を仙台領民として受け入れ、三閉伊通を幕府直轄地か、もしできなければ仙台領にしてほしいなどとするものだった。南部藩は、百姓の引き渡しを仙台藩に要求したが、天保8年(1837)の盛岡南方一揆での南部藩の約定破りのこともあり引き渡しには応じなかった。

この騒動は公になり、南部藩はやむなく一揆勢の要求のほぼすべてを受け入れた。南部利済派は一掃され、利済は江戸城下で謹慎となり、翌年没した。

この当時の南部藩の領民は35万人で、三閉伊地方の領民は約6万人だった。その中で1万6千人に上る一揆は、南部藩全体を震撼させる大規模なものだった。参加者は農民や漁民、その他の様々な生業に携わる人々の集合で、女性も多く、年齢層も幅広かった。

一揆の首謀者は捕らえられればすべて処刑されるのが一般的で、南部藩も打ち続く一揆の中で首謀者は苛烈に処断された。このため、一揆の代表者45人の身にもしものことがあったら、子孫の10年間10両の保育料を各村が支給することが約されていたと云う。

一揆勢の行動は、これらの指導者の談合により計画され、民衆はその指示に従い行動した。また彼らの要求実現のため、藩と藩の公約にするために越訴という方法をとった戦略観も特筆すべきである。南部領において、戦国時期の軍事行動まで含め、これだけの人数が統一的な行動をとった例は他に無いだろう。