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戦国時代の庄内地方の有力な武将は、大宝寺(武藤)、土佐林、来次、砂越 の各氏で、中でも大宝寺氏は、羽黒山別当を兼任し、羽黒山の権威を利用しながら勢力を拡大し、庄内地方での一大勢力になっていた。大宝寺氏は現在の鶴岡の大宝寺城に拠っていたが、一族との抗争が激化し、砂越氏の反乱により鶴岡市大山の尾浦城に拠った。

大宝寺氏は越後本庄の本庄繁長との結びつきが強かった。本庄繁長は上杉謙信の支配下にあったが、越後北部は自立の傾向が強く、永禄11年(1568)には武田信玄の調略を受け、上杉からの独立を目論み上杉謙信に叛旗を翻した。大宝寺義増は本庄氏に加担したが、途中、上杉謙信の力を恐れ、単独で謙信に和を請い、謙信からの信頼の厚い土佐林禅棟を嫡子義氏の後見役とし自身は隠居した。翌年、本庄繁長は上杉謙信の猛攻を受けて、嫡男を人質として出し降伏し、帰参を許された。

大宝寺氏は、かねてより北進策を講じており、義増は由利郡に割拠する由利十二頭との関係を結んで、安東(秋田)氏、小野寺氏らと対抗しようとした。また土佐林氏も由利衆の仁賀保氏と関係を結び、大宝寺氏と土佐林氏と由利十二頭諸氏との間で複雑な相互関係が生まれ、国人等の内紛により庄内は混乱した。元亀2年(1571)、土佐林氏らが大宝寺義氏に叛旗をひるがえした。義氏はこの叛乱を鎮圧し、義氏が庄内を平定し、由利郡の国人らも大宝寺氏の支配下に入り、ここに庄内地方における義氏の覇権が確立された。義氏は大宝寺氏の最盛期を現出したが、その覇権は、義氏の背景に上杉謙信の威令があってのものだった。

庄内が平定され、由利地方が大宝寺氏の支配下に入ることは、その北方の安東氏にとっては看過できることではなかった。安東愛季は、由利地方で大宝寺氏の支配をまだ受けていない小介河氏を支援し、大宝寺義氏と攻防を繰り返した。また、山形の最上義光の力が強力になり、最上領に侵入しようとする大宝寺義氏の前に立ちはだかっていた。そのようななかの天正6年(1578)、謙信が死去したことで庄内も大きく動揺することになった。上杉家では景勝と景虎の間に相続争いが起り(御館の乱)、上杉氏の庄内に対する圧力が後退すると、 大宝寺氏は自立した戦国大名への道を急ぎ、大名領国化を強行した。

天正10年(1582)、小介河氏の拠点である新沢館を中心に小介河・安東方と数度の合戦を繰り返し、また一方で、義氏は最上領侵攻を企図して清水城、鮭延城を攻めて最上義光と戦った。そして12月、義氏は由利攻略の兵を起こして安東方の砦を攻撃し、翌年には新沢城を攻め、その外構えをことごとく撃ち破り、焼き払い、城を残すばかりとなった。しかし、義氏はあと一歩のところで安東氏らに大敗を喫して兵を引き上げざるをえない状況になった。

この義氏の度重なる強引な外征は、庄内の武士たちから次第に疎まれるようになった。それは「義氏繁盛、士民陣労」といわれ、「悪屋形」と陰口をたたかれるようになっていた。この新沢城における敗戦からわずか二ヶ月後、最上義光と通じた前森蔵人の謀叛により、天正11年(1583)3月、自害に追い込まれた。この謀叛に際しては、義氏の一族をはじめ庄内国人衆のほとんどすべてが義氏打倒に立ち上がっている。

義氏の死により庄内地方は大混乱となった。義光の謀略によって大宝寺義氏は殺害されたが、庄内が最上氏の領国になったわけではなかった。庄内の国人らもある者は最上氏に、ある者は上杉氏にという風に複雑な様相を呈して紛争が止むことなく続き動揺のなかにあった。前森蔵人は最上義光にとっては功労者であったが、義光と内通して主人義氏を殺害したうえに家格の点からも、「庄内の主」になれず、義氏のあとはその弟で丸岡城主、藤島城主、羽黒山別当の丸岡兵庫が継ぎ、大宝寺義興を名乗った。

前森蔵人は酒田の東禅寺城に入り東禅寺筑前守義長を称した。大宝寺義興と東禅寺義長は激しく争い、義興は越後の本庄繁長と手を結び、上杉景勝の力を背景とするようになり、東禅寺義長は最上義光との関係を深めてゆき、両者の抗争はさらに熾烈の度を増していった。大宝寺義興は、本庄繁長の次男を養子とし大宝寺氏と本庄氏の関係はさらに強化された。しかしこのことは、庄内国人衆の義興に対する不信を高める結果になり、庄内の混迷はさらに深まっていった。

天正13年(1585)6月、大宝寺義興は最上側の清水城を攻撃した。しかし翌年には東禅寺義長は飽海郡に叛乱を起こし、これに呼応した最上軍が庄内に侵攻した。最上義光の宿将氏家尾張守が率いる最上の大軍は観音寺城の来次氏房を激しく攻撃し、飽海郡をほぼ掌中におさめた。これに対して、大宝寺義興も上杉景勝の援軍をえて田川郡を確保した。

天正15年(1587)、最上義光は大宝寺義興を激しく攻め、さらに10月には、東禅寺義長が叛乱を起こした。大宝寺義興は東禅寺城を囲み、落城寸前にまで追い込んでいたが、最上義光は東禅寺義長を支援するため、大軍を率いて庄内に攻め込んだ。やむを得ず大宝寺義興は最上義光と和議を結び兵を引いた。翌年4月には、最上義光が庄内に侵攻したが、このときは本庄繁長が援軍を派遣し、最上勢をどうにか退けることができた。

しかし、この年の9月に、最上と東禅寺勢の大攻勢が行われた。尾浦城は陥落し義興は自殺した。尾浦城が落ちたとき、義興の本庄氏からの養子義勝は越後国境に近い小国城に避難していた。こうして、庄内のほとんどは最上義光の手中に落ち、同時に庄内の越後勢力も一掃された。庄内を掌握した義光は、東禅寺義長に庄内を任せ、その目付けとして腹心の中山玄蕃朝正を尾浦城におき山形に帰陣した。

庄内に威を張った大宝寺氏は没落したが、これは庄内の混乱の第一幕でしかなかった。

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