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山形県と秋田県の県境に近い金山町の家に、この地に嵯峨天皇が一時住まわれ、先祖はその嵯峨天皇の従者だったという話が代々伝えられている。残念ながらそれを裏付ける資料や地名などを探すことは出来なかった。ここでの話は、その伝承と史実をもとにした創作である。

神野親王(嵯峨天皇)は、桓武天皇の第二皇子として延暦5年(786)に生まれた。兄に12歳年上の安殿(あて)親王(平城天皇)がいた。延暦4年(785)、安殿親王は11歳の時に皇太子となったが、我がままで自堕落な性格だったようで、父の桓武天皇との仲は良くなかった。

延暦12年(793)に、皇太子の護衛官が殺された事件が起きた。この事件の背後には安殿親王の存在があると噂になり、桓武天皇は激怒し下手人を捕え処刑したが、その関係で、下級官人が衛門府の門で首つり自殺をするなど、宮廷内には不穏な空気が漂っていた。また安殿親王は、妃の母である藤原薬子と不倫の仲になり、さらに薬子は他の貴族とも通じていたとされ、桓武天皇はこれに怒り、薬子を東宮から追放した。

このようなこともあったためか、桓武天皇は安殿親王を皇太子としたものの、その跡は安殿親王の子ではなく、第二皇子の神野親王を皇太弟とすることに決めていた。このような中での延暦25年(806)、桓武天皇が崩御し、安殿親王がその跡を継ぎ平城天皇となり、神野親王が皇太弟となった。

この時期、奥羽の地では、坂上田村麻呂が桓武天皇の命を受け、征夷大将軍として蝦夷を討ちこれを下し、延暦21年(802)に胆沢城、その翌年には志波城を築いている。また、この坂上田村麻呂の遠征に先立つことおよそ50年前、大野東人が宮城県の色麻柵で6000の大軍を整え、奥羽山脈を越えて金山の「比羅保許山(ひらほこやま)」のふもとに陣取り、この地の蝦夷を恭順させている。そして、多賀城から出羽柵までの道を開き、雄勝柵を造営し、現在の金山町には「平戈(ひらほこ)」の宿駅が置かれていた。

延暦22年(803)頃には蝦夷の抵抗が激しくなり、秋田城がその機能の一部を停廃止し、また経済的なこともあり、大和朝廷は北進を止め、東は紫波城、西は雄勝柵周辺が大和朝廷勢力の北辺の地となった。そしてこの奥羽の地の実質の支配者は坂上田村麻呂ということになる。そして平戈の地に神野親王を匿うことになる。

平城天皇は、即位当初は政治に意欲的に取り組んでいたが、その一方で藤原薬子は呼び戻され再び平城天皇の寵愛を受けるようになり、薬子の夫の藤原玉縄は九州へ飛ばされた。平城天皇は薬子を尚侍に任じ、宮廷内部の事を一任した。薬子は兄の藤原仲成とともに政治に介入し専横を極めたが、桓武天皇時代からのいきさつを良く知る坂上田村麻呂をはじめとした者たちは、平城天皇に対し度々諫言を行い、病いがちだった平城天皇は、宮廷内の混乱に嫌気がさし始めていた。

しかし薬子と藤原仲成は、自分たちの栄誉栄華の為には、平城天皇にそのまま在位してもらう必要があり、また皇太子として平城天皇の第三子の高岳親王を立てようとし、皇太弟の神野親王を除くことを企てた。これを察知した坂上田村麻呂は、実質的に自分が支配する奥羽の最北の地の平戈の地に匿った。

その上で田村麻呂らは武力を背景に、平城天皇の身分と名誉を保証し、平城天皇の子を皇太子とすることで、神野親王への譲位をせまった。この時期には平城天皇も薬子と仲成らの専横の振る舞いを強く感じており、田村麻呂らの諫言を受け入れた。田村麻呂は神野親王をすぐに平戈の地から都に呼び戻した。大同4年(809)神野親王は平城天皇の跡を継ぎ、嵯峨天皇となり、皇太子には平城天皇の三男の高岳親王が立てられ、平城天皇は上皇として旧都平城京に移った。これは田村麻呂らによるクーデターと言えるものだった。

しかし薬子と仲成らは平城上皇をあおり、嵯峨天皇が旧制度を改めようとしたことを上げ、平城京と平安京の二所朝廷といわれる対立が起こった。この時点で、薬子が任じられていた尚侍の職にはまだ大きな権限があり、場合によっては、上皇が薬子の職権で太政官を動かすことも可能だった。

二所朝廷の対立が深まる中で、薬子と仲成ら平城上皇側は、平安京を廃して平城京へ遷都する詔勅を出した。嵯峨天皇はこれを拒否し、藤原仲成を捕らえて佐渡権守に左遷し、薬子の官位を剥奪して罪を鳴らす詔を発した。

平城上皇はこれに激怒し、自ら東国に赴き挙兵することを決断し、薬子とともに輿にのって東に向かった。これに対し嵯峨天皇は、坂上田村麻呂に上皇の東向阻止を命じ、田村麻呂は文室綿麻呂らとともに平城上皇らの行く手を塞ぎ、上皇と薬子らはやむを得ず平城京へ戻り、上皇は剃髮して出家し、薬子は毒を仰いで自殺し、藤原仲成も処刑された。

事件後、嵯峨天皇は関係者に寛大な処置をとることを詔した。平城上皇はその後も平城京にあることを許され、称号もそのままとされた。また、皇子の高岳親王は皇太子を廃され、阿保親王は大宰権帥に左遷されたが、その後、四品親王の身位を許され、相応の待遇は保障された。

これ以降、大和朝廷は蝦夷に対する直接の征服活動を諦め、出羽においては払田柵付近を北限として停止した。その後は、現地の朝廷官僚や大和化した俘囚の長たちにより、徐々に大和化が進行していった。

奥羽の「辺境」の地は、宮廷人の避難の場所として、史実として、あるいは伝説として良く出てくる。古くは出羽三山を開いたとされる蜂子皇子、南北朝期に多賀城に下った後村上天皇は現在定説になっており、伝説としては染殿后藤原明子、護良親王、長慶天皇など挙げれば枚挙にいとまがない。金山の地に伝えられる伝承も、もしかすると史実の一端かもしれない。