2015/07/25取材 宮城県仙台市青葉区

 

歴史散策⇒大橋

この日は、ひどい暑さだった。大震災の後の石垣修復が終わった仙台城の始めての訪問だった。訪問するとなると、微にいり細にわたり歩かなければ気がすまない。まずは仙台城の大手門跡に続く大橋の根元の切支丹殉教地を訪ねた。

伊達政宗が、仙台に築城した当時は、すでに切支丹弾圧は全国的に広がっていたが、仙台藩は比較的切支丹には寛容で、多くの切支丹が仙台領に逃れてきていた。政宗は仙台城築城当時は、まだ天下への野望を捨ててはおらず、切支丹たちの製鉄技術や、大船築造技術などをさかんに取り入れていたようだ。

しかし、そのような仙台藩に対して、幕府は切支丹の取締りを強硬に申し入れてきたようで、それでも政宗は、ガルバリヨ神父らを、布教をしないことを条件に助けようとしたようだ。しかしガルバリヨらはそれを拒否、政宗はやむを得ず、逃げおうせることができないと思われる外国人神父を捕縛、それを慕う領民とともに、この地の水牢に入れ、8人全員が殉教した。

仙台藩には多くの切支丹がおり、当時の日本の切支丹の中心的人物だった後藤寿庵は、水沢福原の所領に教会やマリア堂なども建て、「神の王国」を築いていた。また政宗の正室の愛姫や息女の五郎八姫、重臣の茂庭綱元も切支丹だったと伝えられる。仙台では、この地が切支丹殉教の地として大きく取り上げられているが、実はこれは序章でしかなかった。

政宗が没した後まもなく、幕府はさらなる切支丹取締りを要求してきた。それは、仙台藩で行われていた切支丹たちによる、鉄砲製造、製鉄をつぶすためではなかったかと思われる。政宗なきあと、仙台藩ではこの幕府の要求を受け入れるしかなく、仙台領北辺の、製鉄に従事していた切支丹たちは、数度にわたり徹底した弾圧を受けることになる。

私は不信心者であるため、「逃げれば良いものを」と思う。しかし当時の殉教者の多くは殉教を崇高なものとして受け入れたようで、それもあってか殉教者は多く出た。それでも迫害から逃れた切支丹たちも多く、東北や北海道の金山など各地に隠れ切薪炭の伝承が伝えられている。