スポンサーリンク

山形県天童市原町

震災前取材

 

天童城主の天童頼久は、出羽統一を目指す山形城主最上義光と対立し、しばしば戦った。他の最上村山地方の城主が義光に敗れ降伏していく中、天険の要害である天童城に籠り最上八楯の盟主として最後まで義光と対立した。

天正12年(1584)、舞鶴山を居城とする天童城主天童頼久と、山形城主最上義光との戦いが始まった。難攻不落といわれた天童城であったが、義光の策略によって味方の一角が崩れたために落城、頼久は仙台国分氏を頼り落ち延びた。

頼久が仙台に逃れた同年10月、天童勢は本陣を「梨の木清水」に置き最後の決戦を挑んだが、八幡山の戦いにおいて敗れた。

天童家累代の墓所である八幡山には、初代天童頼直から頼貞までの天童氏七代の五輪塔墓があり、この戦いで討死した天童家家臣の名簿を書いた看板が立てられている。