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山形県天童市天童字城山

震災前取材

 

この地に、天から二人の童子が舞い降りたことから「天童」の地名が起こったとの伝説が残る。

むかし、舞鶴山の山頂で、行基が一心に念仏を唱えていたところ、山の上に紫色の雲がたなびき、世にも美しい音楽とともに、天から二人の童子が行基の目の前に舞い降りてきた。一人は護衛(ごえい)童子、もう一人は摩竭(まかつ)童子と名乗り、驚く行基にこう言ったという。

「われは、自在天の使者にして、貴僧はこの山頂の大士なり、よろしく一宇を建立し、一切衆生を念仏すべし」。童子はそういい残しどこへともなく消えてしまった。この話を聞いた村人たちは、童子の姿を拝もうと山に登り童子のゆくえをさがしたが、だれ一人見つけることはできなかった。行基は、二人が降り立った霊峰を天童山と名付け、それ以来、天童山の四方の里は天童と呼ばれるようになったという。

その後、行基の弟子の一人が社を建て、二人の童子、すなわち少名彦那命(すくなびこなのみこと)と大己貴命(おおなむちのみこと)を祀ったという。

また、この地には天童丸の伝承も残っている。南北朝時代に、この舞鶴山に北畠顕家の末子の北畠天童丸が居館を築き南朝方の勢力を拡大しようとした。天童丸は山寺立石寺の協力を得て北朝に対抗したが、敗死したとも津軽鯵ヶ沢に逃れたとも伝えられる。後に天童丸はこの天童神社に合祀された。