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山形県高畠町夏茂

震災前取材

 

天文13年(1544)9月、伊達晴宗と岩城氏女の久保姫の二男として生まれた。長兄の親 隆は、男子がいなかった母方の祖父である岩城重隆の養子となっていたため、二男の輝宗が伊達家の世子となった。

天文24年(1555)元服し、将軍足利義輝の偏諱を受けて輝宗と名乗る。永禄7年(1564)、最上義守の娘で最上義光の妹の義姫を娶り、同年家督を譲り受けた。

この時期は、父晴宗と祖父稙宗とが争った天文の乱の影響が残り、伊達家にかつての勢いは無く、家中はまだ混乱していた。家中の実権は、天文の乱に際して家中最大の実力者となった重臣中野宗時、牧野久仲父子に握られていた。

輝宗は家中の統制を図るため、永禄13年(1570)、中野宗時に謀反の意志有りとして居城の小松城を攻め中野父子を追放、小梁川盛宗、白石宗利、宮内宗忠らを処罰した。

輝宗は、鬼庭良直を評定役に抜擢して重用し、また、中野宗時の家来であった遠藤基信の才覚を見込んで召し抱え、外交を担当させた。この両名を中軸とし、戦略面では晴宗の方針を引き継いで葦名氏との同盟関係を保ちながら、天文の乱以前の勢力回復に努めた。南奥羽における諸侯間の紛争調停に努める一方、長兄の岩城親隆や三芦城主の四弟の石川昭光と連携し、天文の乱以来の宿敵の相馬氏と対峙した。

また幅広い外交活動を展開し、天正3年(1575)には、中央の実力者織田信長に鷹を贈り誼を通じ、遠藤基信に命じて北条氏政、柴田勝家と頻繁に書簡、進物をやりとりして友好関係を構築した。

天正6年(1578)に越後の上杉謙信が没し御館の乱が勃発すると、輝宗は北条氏との同盟に基づき、景虎方として参戦したが、乱は景勝方の勝利に終わり、得るものは無かった。その後も、織田勢を指揮して上杉景勝を攻める柴田勝家とも連携し越後への介入を続けたが、これも信長の死により得るところ無く収束した。

この間、対相馬戦においては、相馬盛胤、義胤父子の戦上手さに苦しみ、戦局はなかなか好転しなかった。

このため輝宗は、天正7年(1579)に田村清顕の娘の愛姫を、嫡男政宗の正室に迎え味方につけ、天正10年(1582)には小斎城主佐藤為信を調略し、天正11年(1583)5月、ついに天文の乱以降最大の懸案事項であった要衝丸森城の奪還に成功し、翌天正12年(1584)1月には金山城をも攻略した。

これにより、伊達氏は、天文の乱以前の勢力圏である11郡余をほぼ回復し、南奥羽全域に多大な影響力を行使する立場となった。この時期が輝宗の絶頂期と言え、天正11年(1583)4月に、賤ヶ岳の戦いで盟友柴田勝家が羽柴秀吉に敗れて滅亡した際には、豊臣秀吉の勢力が、東国に及ぶような事態に至れば、奥羽の諸大名を糾合しこれに対抗する意思を示していたと伝えられる。

輝宗は、嫡男政宗の教育には非常に熱心であり、元亀3年(1572)に甲斐国から快川紹喜の弟子である臨済宗の虎哉宗乙禅師を招いたのをはじめ、多くの高名な儒学者、僧を伊達家の居城である米沢城に招き、さらに片倉景綱、屋代景頼、津田景康ら多くの有望な若手家臣を家中から選び、早くから政宗に仕えさせた。

天正12年(1584)、40歳で家督を政宗にゆずり、米沢城から修築した館山城に移った。

この早すぎる隠居は、最上義光の謀略による家督相続争いを未然に防ぐためと、相馬氏との戦いの中で、政宗が大器の片鱗を見せていたためとも云われている。しかしそれは、輝宗の思惑とは異なる形で、南奥羽は一気に流動化することになった。

輝宗は、葦名盛隆が男色関係のもつれから家臣に殺害されると、生後わずか1ヶ月の盛隆の子の亀王丸の後見となり、自らは、懸案であった越後介入に専念するつもりであったという。ところが、家督を継いだ政宗は、翌天正13年(1585)5月、葦名領に侵攻、また田村氏と対抗していた小浜城主大内定綱と二本松城主畠山義継へ攻撃を加えた。

田村氏は前年に大内氏との争いに際して輝宗より示された調停案を不服として従わず、大内氏に加勢した石川昭光、岩城常隆、伊達成実らの攻撃を受けていたが、新当主の政宗は、父の裁定を覆して岳父の清顕に加担した。また、政宗は上杉景勝と講和して、伊達、葦名、最上による共同での越後介入策を放棄した。

こうした政宗による急激な戦略方針の転換は、輝宗によって築かれた南奥羽の外交秩序を一気に流動化させるものだった。

輝宗の外交戦略は、祖父稙宗以来の、政略結婚や養子を送り込むことでの合従連衡による南奥羽統一だったが、政宗のそれは、織田信長的な武断的な中央集権的な統一を目指すものだったといえる。

同年10月、畠山義継が政宗に降伏を申し入れると、政宗は義継に対し所領を大幅に削減するなど苛烈な条件を示したが、輝宗のとりなしを入れてこれを軽減した。しかし、屈辱にまみれた義継は、宮森城に滞在していた輝宗を謝礼に訪れた際に、輝宗を拉致して二本松城に戻ろうとした。政宗は急を聞き義継らを追い、阿武隈川河畔で追いつき戦闘になった。輝宗は、このときの混乱の中で没した。

この輝宗の死は、政宗の命令による銃撃で義継も輝宗も死亡したとも、最期を悟った義継が輝宗を殺害したあと割腹したともいわれるが定かではない。享年42歳だった。

輝宗の亡骸は寿徳寺(現福島市の慈徳寺)で荼毘に付され、この地に埋葬された。

輝宗の死により、伊達氏と近隣勢力との関係は一挙に悪化した。佐竹氏による本格的な奥州介入、石川昭光をはじめとする同盟勢力の離反、葦名氏継承問題における敗北などと伊達氏は窮地に陥ったが、天正13年(1585)11月の人取橋の戦いをかろうじて乗り切り、摺上原の戦いで勝利し、窮地を脱していくことになる。