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宮城県松島町松島字町内

震災前取材

 

陽徳院(愛姫)は、二代忠宗が母の信仰に報いるため、瑞巌寺の修行道場として1650年に建立した。万治3年(1660)廟が営まれた。格天井で彩画が施された江戸初期の建築様式をとどめ、方一間、宝形造、銅板葺の廟は、女性にふさわしい姿を見せている。

愛姫(めごひめ)は、福島の田村郡三春の城主、田村清顕の一人娘で、伊達政宗の正室。母は相馬氏。院号は陽徳院。瑞巌寺の尼僧姿の愛姫像は美しく「めごい姫=愛姫」の愛称どおりの美しい女性だったようである。

天正7年(1579)、11歳の時に1歳年長の伊達政宗の元に嫁ぐ。そのころ田村氏は、蘆名(会津)、二階堂(須賀川)、石川(石川)、白河(白河)、岩城(平)など、周囲を敵に囲まれていた。このような状況の中で、清顕は伊達氏と結ぶことによって家を守ろうと考え、娘愛姫を米沢城の伊達輝宗の嫡男政宗に嫁がせたものだ。

当時の伊達家は、政宗弟の小次郎を家督にと考えるグループとの暗闘があり、政宗の暗殺未遂事件がおきる。政宗は田村氏からの内通者の関与があったと疑い、愛姫付きの侍女たちが死罪にされた。

一時政宗との間は冷えたものになったが、その後の伊達家と政宗の苦境の中よくそれを支え、夫婦仲は円満だったようだ。京の聚楽第の伊達屋敷に移ってから、文禄3年(1594)には五郎八姫(松平忠輝室)を生み、忠宗(仙台藩二代藩主)、宗綱、竹松丸を生んだ。

寛永13年(1636)5月に政宗が死去した後、瑞巌寺の雲居禅師の元で仏門に入り、陽徳院と称した。承応2年(1653)1月に86歳で死去する。

導師の雲居禅師も、愛姫について「家庭をよく治め、慈愛深く聡明な奥方であられました」と、愛姫の人柄について語る言葉を残している。