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宮城県東松島市大塩中沢上

震災前取材

 

矢本氏重層門は、天明5年(1785)登米の伊達式部の命により建造された。矢本氏は近世の豪農で村役人で、登米伊達氏の仙台参勤の折の仮屋に充てられた。

矢本氏は、後三年の役に源義家に従って勇名をあげた鎌倉権五郎景政の流れの長江氏の一族と思われる。長江氏は、源頼朝が奥州藤原氏を攻めた奥州合戦の功により桃生郡深谷保を賜った。

長江氏は独立した領主であったが、葛西氏の全盛時代には葛西氏に属していたと思われる。しかし伊達氏が急速に勢力を拡大し、天文年間には深谷地方にも伊達氏の力が及ぶようになり、長江氏は伊達氏の麾下に属するようになった。

ところが、伊達家の家督相続をめぐる「天文の乱」の時期に、長江氏内部では勝景(月鑑斎)兄弟に争いが起きる。勝景の二弟景重は矢本氏を継ぎ、三弟家景は三分一所氏を継いで、深谷保を三分していたようだが。元亀年間(1570頃)、長江勝景と矢本景重の間に合戦が起こり景重は討たれて矢本氏は滅亡する。これはおそらく葛西氏と伊達氏との間で、その去就を巡ってのものだったろう。

矢本氏はこの時期に滅亡したが、長江勝景はその後伊達軍団の中でその勇名を馳せた。しかし、大崎合戦で葛西に破れ捕らわれ、その時の行動から伊達からの離反を疑われ、天正19年(1591)、長江勝景(月鑑斎)は秋保氏に預けられ、政宗の命を受けた秋保氏によって殺害された。

これにより戦国の表舞台から長江氏は消えるが、恐らくはこの地で帰農した矢本氏が、藩政時代にその家柄と器量により、この地域の豪農として続いたのだろう。