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宮城県南三陸町歌津字樋の口

震災前取材

この標高512mの田束山(たつかねさん)は古くから修験の山として有名で、山頂には平安時代末期の経塚群がある。経塚は石と土を積み上げた高さ0.7m、径2m前後の円形で、11基からなる。発掘調査された第5号経塚では、石室の中から青銅製の経筒と経巻(法華経)が発見されている。経筒の底には松喰鶴鏡がはめ込まれていた。また、周辺からは経容器と考えられる三筋壷が見つかっている。

平安時代の末、仏法が衰えて世の中が乱れ混沌の時代が来るという末法思想が起こり、貴族などの間には、末法の世を越えて大切な経典を未来に残そうと、塚を築いて経典を土中に埋納する風習が起こった。田束山の経塚も、出土した遺物から平安末期、平泉藤原時代の経塚であることが確認されている。

また、山頂から70mほど下がった山腹に、堂や坊の跡と見られる平坦面があり、発掘調査の結果、建物跡や中世陶器が発見された。

田束山は、安中年間黄金文化を開花させた岩手県平泉の藤原秀衡が、深く信心していたといい、山頂に羽黒山清水寺、中腹に田束山寂光寺、北嶺に幌羽山金峰寺など七堂伽藍、七十余房を造営、「秀衡の子本吉四郎高衡をして山神祭禮を司さとらしむ」と古文書に記されている。

田束山は、本吉郡内の最高峰で、高山植物の宝庫でもあり、春とも成れば約5万本の山つつじが、全山を燃えるように染め上げる。山頂からは南三陸の海岸美や太平洋の大海原、また遠く金華山や栗駒山、蔵王連峰までもが見渡せ、360度の パノラマ眺望が堪能できる。