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福島県只見町只見字新町…要害山

震災前取材

  • 水久保城跡
別名:水窪城

水久保城は、只見町の北側にある、標高710mの要害山一帯を城域とする山城である。

水久保城のある只見川一帯は、戦国時代は山ノ内氏が金山町の中丸城を本拠とし支配していた。山ノ内氏は会津の葦名氏に臣従していたが、葦名氏は摺上原の戦いで、伊達政宗に敗れ滅亡、会津地方は伊達政宗の支配するところとなった。

しかし、山ノ内氏勝は伊達の支配に抵抗し、そのため伊達氏は大軍を中丸城へ送り中丸城は落城した。氏勝はこの水久保城へ逃れ、さらに抵抗を続けた。氏勝には、豊臣秀吉の意を受けた越後の上杉景勝が、援軍と武器、食料を送っており、翌年の奥州仕置までついに伊達に降伏することはなかった。

この時、氏勝には石田三成から書状が送られ、それによると、
「北条氏を攻め滅ぼした後はすぐに黒川城に攻め入り、政宗の首を刎ねるので、少し辛抱してほしい。大沼郡伊北の地は山ノ内氏の所領であることは重々承知している。その件については関白様へ言上して許可を得、御朱印をお送りする。」
とあると云う。しかし、天正18年(1590)の奥州仕置では、会津は蒲生氏郷の所領となり、山ノ内氏は上杉景勝被官と見なされ所領は没収された。

水久保城は、山頂の平場を中心としその周辺に本郭域を置き、東側尾根上に中郭域、本郭の北側続きに大手口に関わる郭、南側尾根上に腰郭や物見台、さらに本郭の南東部の出丸、及び東側に突き出た出城、の5ヶ所に大別できると云う。本郭域には、本郭平場や西郭、南郭、北郭などの郭跡と、空堀や土塁、枡形虎口の跡が残り、その他の地域にも竪堀など各所に遺構が残っていると云う。

大手口地域と中郭域には、崩壊した石垣と思われる石積群が残されており、近世に入ってから、蒲生氏か上杉氏時代に修築された可能性もあるという。